ノクターン・金銀砂子

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ノクターン・金銀砂子

 油の切れた行燈に、朝が訪れたことを否が応でも知らなくてはならなくなった希世は、その気怠い気分とは裏腹にすっと上半身を起こして、寝具を整え始めた。彼が薄手の上掛けを広げていると、孔雀の羽が一枚、本に挟んでいたのをしばらく忘れられていた栞のように落ちた。(まだ婚姻も済んでいない男の元に、夜中に来るなと言ったほうが良いのだろうか)と、憮然として羽を胸元に押し込んだ希世は、確かな足取りで浴室へと向かった。肉体の春とは対照的に、精神や思考に幼さの色濃い観怜には、そうしたセンシティヴな暗黙の了解が通じていないように思われた。蔡月の教育が遠慮に過ぎているのか、観怜が希世に夢中になる余り境界を誤っているのか、飄々とした雅客たる希世が珍しくこのような釈然としない苛立ちを感じているのは、彼が夢の中でもう会えなくなった鳥と邂逅していたのを朝のぬるい光に断ち切られたからかもしれない。希世自身にもその確かな実感があるわけではないが、彼の胸の切々とした痛みは真実として、過去に彼が置き去りにした激情を蘇らせようとしていた。(……わたしの鳥、か)希世は観怜の色彩豊かな表情の数々を、心に思い描いてみた。繊細で鮮烈で、何よりも純粋な、美しい孔雀。(観怜が望んでいる以上、この婚姻に不幸なことなど、何もないはずだ)愛すべき観怜の媚態は、希世に空しい情欲を焚きつけるだけで、拒絶で張り詰めた希世の精神を余計に痛めつける毒となった。  彼が季節にそぐわず冷えた足で屋敷の廊下を渡り、浴室の扉を開くと、丁度湯浴みに入っていたらしい観怜が、濡れた羽を広げながら、葉の透かし模様の入った薄い木綿の襦袢一枚を裸体の上から羽織っていた。はだけた襦袢から覗く陶器のような白い胸板からは、香料が練りこまれた石鹸の香りが観怜の体温によって揮発して、流れ出る湯気の中に甘ったるい色香が匂っていた。使用人の手を断固として借りなかった結果として、歩く喜びを得たばかりの雛でももう少し上手に着替えられるのではないかという恰好をしているのに、その自己認識が全く無い観怜は、気色ばんだような非難の視線を希世へ突き刺している。(子ども扱いするなと言いたそうだが、この様子ではそうせざるを得ない)希世はこの時もやはり霞に溶かしきった彼の心を孔雀の百の目といえども知られることはないだろうと信じていたので、観怜の心底をそのように誤解して解釈したのである。彼は観怜の襦袢の襟元を握って、そのしなやかな身体に合わせて着付けてやろうとしたが、金糸の長髪を翻してじたばたと無理に希世から離れると、重たい沈黙だけを残して、ほとんど裸に近い姿のまま浴室を出て行ってしまった。  「……だから、ご入浴されるなら使用人を付けると申し上げたでしょう。希世様に当たってはいけませんよ」  主人の生活能力を熟知している蔡月が、分かり切った結果に対する苦々しい表情を隠さずに、着物一式を抱えてやって来た。観怜を過度に甘やかすことは決してしない蔡月だが、この朝ばかりは諫言を普段の調子で挨拶のように繰り出したことを後悔することになる。観怜は拙い手つきで衣装を直そうとしているが、苦悩、失意、そうした感情が指をもつれさせて余計に上手くいかないようであった。家令の発言などでは落ち込むはずのない観怜の、愛でられていたのに力加減を誤って手折られてしまった花のような、弱々しい曲線を描く背には、巣と親鳥を見失った冬の雛の寂寞が漂っていた。希世はその背を抱いてやることもせず、ただじっと異様ともいえる観怜の不興の原因を思案し、あの舞い落ちた一枚の羽の存在を思い出して――恐るべき可能性に直面したのである。観怜のことを根本的に勘違いしていたのだ、と希世は不吉な推測を続ける。心を読み、毒をも食らう地上の国で最も華やかなりし鳥、それが孔雀だ。孔雀の全てだ。(そんなものに愛される資格など、わたしには元々無かった。鳥と人間は、真の意味で惹かれ合うことなどできないのに!)希世は秘密主義者がよくそうするように、物憂い影を目元に落として、傷つききった哀れな伴侶を眺めていた。  「ぼくが着替える間に、希世を……ご客人を送って差し上げるんだ」  「本当によろしいのですか」  持てる力全てで羽先をぴんと伸ばした観怜は、ただならぬ空気を感じている蔡月が何か建設的な和解案を出す前に『客人』という単語で以って彼の失望を吐き捨てた。観怜に恋人の顔をして触れるのをためらう希世の空しい優しさを一蹴するその声色は、有無を言わせずに蔡月を従わせる効力があった。『主人の主人』たる希世の肩を持った発言をいの一番にしたことに幾許かの道義的責任を感じているらしい蔡月に深々と頭を下げられながら、こうした不和の連なった経緯で屋敷をほとんど追い出された希世は、白昼夢の中を歩いているかのような心持で、人間を迷わせる森の中を歩き始めた。  自分がどう歩いてきたかもよく覚えていないといった調子のまま、希世は京へと帰還した。彼は歴代の皇帝がその生を謳歌してきた古宮(こきゅう)の博物館に集めてくるばかりですっかり溜め込んでいた水墨画の研究資料の精査をいい加減始めなくては、と観怜との恋の事変から無理に思考を切り離そうとしていた。雅号を紫奉城(しほうじょう)というこの城とそれに連なる宮々は、文官である希世の仕事場でもある。皇国の終わらない春を象徴しているかのような贅を尽くしたこの古宮に、希世の心は永遠に囚われている。孔雀の屋敷から見るのとは異なった、青みがかった黒い空が、休日の終わりを告げている。希世は古宮の西に建つ監視塔に昇って、遠くで更けていく夜を見つめていた。黒の中にかかる灰色から、金や朱、白の粒が点々と光を放って、さらさらと砂のように大河へと落下していく。空にたなびくのは雲ではなく、硝煙だ。隣国との小競り合いの戦闘が今夜もまた起きているのである。希世がその絵画的な趣向のある光景を見に来るのは、皇帝の欲望のために寵愛されて、その後無惨な運命を辿ることになった鳥たちへの追惜のためである。皇帝が古宮の鳥たちを使って皇国へ掛ける、この花火のように見える禁忌の魔術は、確かに他国の軍を強く牽制している。    (華鶴(かかく)を古宮で失ってから、わたしは空虚だ。追いかけることも出来ずに、ずっと生き続けて……)観怜と出会ってから、希世はかつて命を賭す覚悟で恋焦がれた華鶴の面影を、ついに手放してしまおうと何度も挑戦しては挫折していたのだった。心優しく繊細な鶴であった華鶴は、『恋の時節』で皇帝に見いだされた鳥であったために、希世の想いは皇帝がいる限り絶対に報われることはなかったのである。皇帝としての立場など希世は寸分の興味もなかったが、ただ華鶴と添い遂げることが出来得るという点で、自分が皇帝であったらどれだけ幸福なことだろうと悲しみに耽っていた昔日を、金砂が落ちては消えていく、不気味なほど静かな夜に希世は回想していた。観怜から向けられる以上の愛着を希世が返せないのは、華鶴という鳥が『恋の時節』で定められた道理を超えて彼の心を埋め尽くしていたからである。最北の湖畔から皇后として連れて来られた華鶴の、触れたら溶けてしまいそうな羽を不安げに震わせて、今にも涙を落としてしまいそうな、希世に救いを求めるあの眼差しを希世は片時も忘れたことはなかった。しかし希世のあずかり知らぬところで、華鶴は命を落としてしまった。皇帝の鳥、皇后という立場を妬んだ女官に暗殺されたのだという発表がなされた直後に、あの忌まわしき魔術が完成したという、皇帝が書いたこの白ける筋書きは、希世から生きる意欲を失わせるには充分すぎたのである。(わたしは本当に観怜を愛せるだろうか? 華鶴がもし今も生きていたら、わたしに何と言うだろう……)錦のような豊かな髪を結んでほしいとせがんでくる観怜の、天衣無縫な笑顔が、深く沈みきった希世の心にふと暖かみをもって蘇ってくる。孔雀の羽の目の元でも、鶴の肖像から透けて見えるその心象は正しく真理であった。長い時間忘れていた、その優しい気持を希世に思い出させたのは、間違いなく観怜なのだ。希世は目を閉じると、彼の鳥のことだけを静かに想った。希世にまとわりつく闇を払うように、孔雀はその羽を存分に広げ、誰にも踏み入られない希世の聖域、心の楽園を群青の目で照らしていた。
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