勅命

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勅命

 明け方に降った涼雨が、一輪の百合に触れ、鋏の切っ先を入れる観怜の背中に言いようもなく張り詰めた空気を漂わせている。きっちりと身を覆う上衣に重ねた墨色の長羽織の袖の中に手を入れている希世に、わざと背を向けている観怜の横顔はいつになく険しい。屋敷を覆う暗い森の木々が葉を擦らせる音と拍子を不揃いにして、孔雀の羽が揺れているのを自然と目で追っている希世は、自分の鳥へどう囁こうか、考えあぐねている。停滞した恋の移ろいは、観怜から甘えを奪って、彼が望まない形で大人びた分別をつけていた。蔡月はそうした主人の痛ましい成長を目の当たりにしてか、婚礼の話を避けるようになっていて、どちらが先にこの悲劇に幕を降ろすのか、それとも劇的な転換を見せるのか、戦々恐々として気を揉んでいるのであった。観怜に抱く希世自身の感情の根幹に、華鶴の忘れ得ぬ肖像がもやをかけているこの不可解な状態は、恋人たちを閉塞感で雁字搦めにしていた。屋敷の庭園は神経質な手入れが行き届いており、息づく花々は息が詰まるほど豪勢に咲き誇っている。希世は植物の放つ稠密な香りをかき混ぜるように観怜へ悠然と歩み寄って、花を持たせている手をそっと取った。恋人といる幸福と憂苦とで目の色をくるくる変える観怜に対して、希世の眼差しは鋭く、深い。それに射抜かれている観怜の、(ぼくに何か?)という些細な言葉すら忘れてしまったかのような躊躇は、彼の矜持に付けられた傷の痛みを表している。彼は羽の中の百の目の運動を完全に閉じきって、意図的に感覚を遮断して、幼稚な、鈍い思考だけを意識できる白昼夢のように巡らせていた。希世の秘密を『見た』あの夜、希世との逢瀬、それらの場面(シーン)における彼の鳥に対する想いと行動の乖離をどうにも観怜は理解出来ないのである。 (希世はあの鶴を心の中で想っていながら、ぼくを娶ろうと……)朝の澄み切った外気に手を晒して、暖かい血が巡る観怜の指を一本一本確かめるようにしている希世が、柔らかさのある粒だった声色で何か優しい言葉を掛けているのだが、触れ合える距離であるにも関わらず観怜にはほとんど届いていなかった。鳥と人間の摂理にただ盲目に隷従しているに過ぎない、冷淡な男というのが、希世を表現する全てなのかもしれない――希世が観怜の腰を抱こうとゆるりと手を伸ばしたのに合わせて、その恐れが観怜を青ざめさせたとき、屋敷の門から今まで住人の誰も聞いたことのない、物々しい諍いの声が風興な庭園を侵食し始めた。増長した不安からその場に倒れこみそうになった孔雀の身体を支える希世に、鳥への純粋な思慮を僅かばかり感じ取った観怜は、希世の羽織に焚かれた沈香に安堵して、その腕にもたれかかっていた。  蔡月は突如として『勅命』を持って押しかけて来た京の役人たちに、強硬な抗議の姿勢を崩さずに相対していた。同じ立場でありながら皇帝への忠誠心が薄く、自身の関心の思うまま生きているといった希世が、森の屋敷に孔雀が住んでいることを漏洩する可能性は低いと評価している蔡月だが、この凡庸な人間の群れが森を迷わずに進んできたという事実が、事の重大さをまさしく物語っていると苛立たしく思い、侮蔑を隠さずに侵略者たちをねめつけていた。  「この皇国に生きていて、鳥如きが皇帝の勅命に背くのか? 孔雀を出せと、陛下は仰せだ」  「何と言われても、私どもの主人を出す気はありませんよ」  「逆らうなら孔雀も含めて処罰しても良いとのことだが」  「出来もしないことを言わないほうがいいのでは?」  皇帝の権威をかざして、朗々と居丈高に詰め寄る役人に切り返しつつも、蔡月はじわじわと追い詰められている。家令として観怜を守り通す覚悟は、少年であった時代から変わったことはないが、彼を含めた使用人たちがいなくてはなし得ないことであるのもまた事実である。観怜だけでも逃がす、という最終作戦を発動するための、他の使用人への合図を行おうと蔡月が少し視線を逸らした瞬間、この異様な状況を打破すべく乗り込んできた向こう見ずな希世の、研ぎ澄まされて凛とした顔が目に入った。  「短剣を隠し持ちながら丸腰の鳥に詰め寄るのが、紫奉城の礼儀作法とは笑わせる」  泰然として気品を感じさせる普段の調子を崩さずに、相手の勢いを削ぐ静かな気迫に満ちた希世の登場に、役人たちはたじろいでいる。鳥は人間がもたらす快楽を享受するだけの存在であるという、偏見あるいは差別に満ちた言説を信じる人間は、古宮に今も蔓延っている。そんな人間たちが古宮という世間から隔絶された箱庭の外に生きる鳥に仕掛けそうなことなど、手品の類を使わずとも希世にはお見通しというわけである。蔡月は、この人間こそが、家令の覚悟などよりも確かに観怜を救えるのだという予測を裏付ける非言語的確信を以って、希世がどう次の一手を打つのか注視していた。  「……博物館付きの蒐集家風情まで陛下に逆らおうとはな」  広いようで狭い古宮の中では、すれ違う役人同士も所属を超えてどこか顔見知りとなっているようなところがある。一人の文官が、偶然記憶に思い当たった希世の素性を知らせるようにしてひそひそと周囲に耳打ちしている。希世はその眼光に(馬鹿馬鹿しいやつら)と退屈の色を何重にも乗せて小さく首を傾げているが、無言で控えているが視線だけで観怜の居所を探っている武官のただならぬ気配を察知して、彼の珠玉の信条を侵略者たちへ即座に叩きつけることにしたのである。  「あの孔雀はわたしの鳥だ。たとえ皇帝陛下であろうと、渡すことはない」  観怜を語るときの希世には、魂の根源から湧き上がってくる熾烈な至心が宿るのである。希世と観怜という、本来交わらなかったはずの二人の結びつきはやはりそのまま分離してしまうのではないか、という蔡月の危惧が確信に終ぞ変わらなかったのは、希世の激しい色彩の魂の存在が決め手であった。希世の人間としての風格を示した発言を、皇帝への反逆と見た役人たちが、一斉に抜刀してその刃を彼の首筋や胸に肉薄させる。平静をやや失った蔡月が希世の名前を叫んだが、当の希世は寸分の身じろぎもせずに、自身に向けられた刀がぎらついた光を反射しているのをむしろ愉快がっていた。  「斬るか? ……わたしは死など怖れな――」  「待て! 希世から離れろ」  蔡月の合図を待つことなく主人に付き添っていた使用人たちを振り払ってやって来た観怜の命令を、幻聴と解釈しかけた希世は、観怜の着物の前合わせや腰布のように巻かれた帯の大幅なずれに、ここまで相当な実効的手段に訴える者は観怜しかいないと理解せざるを得なくなった。蔡月が主人の無茶を止めようと、羽を振り乱して飛んで行く。(我が鳥ながら、浅はかなことをする)希世はこの状況を一目見たうえで物申したいという観怜の癇癪の一種だと考えて、蔡月に(観怜を早く連れてここを離れてくれ)と目配せしたが、観怜が希世と同じあの瞳をして、不思議な力で役人の刀を全て下げさせてしまったので、家令は何も出来ずに羽を上下させるだけであった。  「ぼくが京に……皇帝の元へ行けば、希世や他の者に手は出さない。そう約束しろ」  使用人を捕まえて状況を聞いていたのか、観怜は役人と交渉する文言をはじめから決めていたかのようである。彼は希世を守りたい一心であったが、同時にある悲壮な決意を確固たるものとして、役人たちをぐるりと見渡した。  「鳥頭にしては話が早くて助かるな。それでいい」  「観怜様!」 声を絞り出して懇願する蔡月に、観怜はほとんど聞きとれないような、空気に溶け込む声でぽつぽつと命令を続けた。  「家令なら、主人を止めるような真似はするな。ぼくの意思で、そうするんだから」  観怜の決意は、希世との美しく幸福な恋を、皇帝の遊興に自らを供することによって全て断ち切ってしまうことにあった。こんな形で主人の運命を狂わされるとは、というやりきれない虚しさが、蔡月にどっと押し寄せてくる。希世もまた観怜の真なる意図を読み取って、呼吸をする度に循環する、淀みの無い森の冷えた外気が気管を通して緊迫を高めるのを感じていた。孔雀の気が変わらぬうちに、急いでこの至高の貢物を連れて行ってしまおうと彼を引っ立てる役人たちの背に、希世は食い下がった。  「観怜を……わたしの鳥を、返せ」  「希世……」  もうこの名前を呼ぶのはこれが最後かもしれないというような、勿体ぶった名残惜しさのある発音をした観怜が、希世に振り返ってその横顔をちらと見せた時、希世は観怜の朝露のような涙の一滴を見た。頬の横を流れる真っすぐな金の髪の上に落ちて消えていったそれは、外殻だけが残されている希世の心を刺した。  「……ぼくは、お前の心にいつもいるんだと、信じていたのに」  希世に今後してやれることは、彼の中に、華鶴の影を傷つけないように残しておくことだけであると観怜は結論づけていたようであった。彼は百の目で心を覗いた事実を希世に責められるという贖罪を少しだけ期待していたが、希世は釈明すらせずに急に歩みを止めてしまった。彼は一方的に優越した立場に甘んじていながら、恋人により深い傷を付けることこそが、愛情の交流においての勝利であるという不条理な色恋の駆け引きに、自身の持つ加虐性を無意識に隠していたことを初めて自覚したのである。希世の元を去って行く観怜に、鳥を娶るという神秘、自身の止まった時間を懇々と思う希世は、静寂を取り戻していく森に降り注ぐ無情な光を避けるように、遅すぎた後悔で目を伏せていた。(これは、観怜と真実の意味で向き合ってこなかったわたしへの罰だ……)希世のやるせない悔恨の念は、観怜の命令を心情では全く受け入れられなかった蔡月にも共通していた。  「……観怜様には、私が子供の頃から仕えているのです。あの通り、未だに子供のようで気性の荒い方ですが、それでも私にはたった一人の主人ですから」  蔡月は少年時代に、もう天へと還ってしまった親鳥の腕に抱かれている観怜と引き合わされた日のことを思い返していた。彼が初めて従者となった日の観怜は、まだ自分の足で歩くこともできない年であり、孔雀の従者という社会的立場を与えられた名誉よりも、眠りこけている嬰児に対しての微笑ましく暖かい気持がその時蔡月の胸を満たしていたのであった。  「貴方が観怜様を幸せにしてくれることを願っておりましたが、それももう……」  追憶が現実に戻ってしまうと、蔡月はまた受け止めきれない絶望に直面することとなった。勅命と希世に因果関係はないと分かっていても、観怜を失い彼がどんな処遇を受けるのかも分からず、家令として気丈に振舞えなくなっていたのである。彼がどうにかこれ以上弱音を吐かないよう重苦しい沈黙で堪えていたとき、希世は役人が引き返したのとは違う方向の京への帰路を算段していた。  「どこへ?」  「古宮へ……皇帝の元へ向かう」  「しかし、そんなことをすれば貴方の身が危ない。もし観怜様と生きて再会できたとしても、貴方がいなくては」  希世は自分と刺し違えてでも皇帝を排そうと考えているのだろうか、しかし希世に暗い復讐者の影はなかった。  「言っただろう、死は恐れないと。わたしは必ず観怜を取り返す。諦めるわけには、いかない」 希世の不敵な微笑は、皇国を、世界を変えてしまえるような確信に照らされていた。生涯でたった一人の鳥の運命を救うためなら、希世は彼の命も全く惜しくはなかったのである。
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