不可視の扉

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不可視の扉

 幻覚のように遠近の狂った大きすぎる月も傾き始める京の夜には、やはり細かな金砂の細かな粒が輝いて星を塗りつぶしていた。皇帝の力と栄華を誇張するこの魔術の光が、皇国の文官としてではなく、鳥の伴侶として古宮の花園に潜伏している希世の野望を暴こうと彼の背に降り注いでいる。花園の名を冠した地にありながら、岩や木々に囲まれて荒々しい山の一角を表して聳え立つ楼閣は、皇帝の寝所と彼が情人を囲って遊ぶ落果軒(らっかけん)によって成り立っている。自分も観怜を救いたいと、蔡月は何度も同行を申し出たのだが、希世はそれを固辞していた。皇帝に囲われた鳥が座敷でどう舞うか、目を背けたくなる饗宴を見聞きしてきた希世の、鳥である蔡月への配慮が最たる理由である。観怜を連れて帰るという真実の決意に、自身のそれを希世へ重ねて託した蔡月は、希世の足元に(どうか、ご無事で)と平身低頭して跪いたのであった。  (来たばかりの観怜が、すぐに殺されることはないだろうが……)希世は赤い房飾りのついた円錐形の帽子を目深に被り、腰を落として落果軒の門まで歩いて行くと、門番に不快な高さの掠れた声を出して、へりくだって入場の許可を請願した。頭の弱い宦官が仕事に遅れたのだろうと冷ややかな嘲笑を投げつける門番の目を、変装と演技であっさりと切り抜けた希世は、刺繍の文様が縫いつけられた赤紫の衣の裾や袖を擦る音すらさせず、夜毎の歪んだ舞台へと足を踏み入れた。華鶴がかつて皇后であった短い日々に、公務のちょっとした用事をつけては足繫く通ったこの楼閣は、過去と変わらぬ不健全な毒気が充満している。贅を尽くした着物を纏って陋劣な脚付きで廊下を渡る、皇帝の鳥たちの卑猥な笑い声がけたたましく響きだすのが、皇帝の来訪はもうすぐだという示唆となる。晩年この乱痴気騒ぎによる過度な心痛を和らげるために薬片の詰まった煙管を吹かすようになった華鶴の、呆然として濁った瞳が希世の記憶から古い傷跡を刺激したが、鳥を得た今の希世は、観怜を想えばこそ、その痛みと決別して前に進むことができるのである。(楼中に観怜が連れて来られてしまう前に、決着を付けなくては)彼は熱狂を燻らせている鳥たちの傍をゆっくりと頭を下げて通り抜けながら、明け透けな噂話に耳を傾けていた。皇帝に自分の名を覚えてもらう手がかりのための、種々の配合がされた香油が羽ばたきに混ざった空気の中でも、希世の瞳はそのまっすぐな意思を一片も失っていなかった。  「ねえ、陛下が孔雀を呼び寄せるらしいよ」  「本当? 孔雀って私より綺麗なの?」  「きっとあんたよりはね」  早速孔雀の話を鳥が持ち出したので、希世は彼らに細心の注意を払って場を観察していた。古宮での地位、落果軒の『順番』に執心しきっている鳥たちにとって、関心事は敵が自分より美しいかそうでないかだけである。彼らの実のない、飛び交う言葉だけは女の遣うもののような口喧嘩を聞かされ続けて、さすがの希世も過ぎる時間に少々焦りを感じ始めたとき、鴫(しぎ)の青年が金切り声で喚きだした。  「新入りの孔雀のために、陛下は新しく部屋まで作っているとも聞いたけど。色んな絵とか飾ってさ。今日はそこからいらっしゃるんだって。どうなってるんだよ」  「そうしてもらえる見込みも一生無いんだから、羽逆立ててひがんでも無駄」  すっかり機嫌を悪くした鴫に、鶲(ひたき)の青年はからからと達観した冷笑を満面に浮かべていた。その時希世は、自身が管理している美術品目録の膨大な項(ページ)を思考の中にめくっていた。関心のあることにのめり込む傾向の強い希世は、目録の詳細な部分まで目の前で実際に読んでいるかのように思い起こすことが出来るのである。様々な時代に皇国各地の窯で焼かれた陶器の壺、皿に、錆びつくことのない金銀細工、異邦人が訪れたことの無い皇国に思いを馳せて描いた油絵、水彩画、などが古宮の博物館に収容されたあと、ある一つの部屋に送られている履歴が残っているのが希世の従来からの気がかりであったのだ。美術品の移動先は落果軒の外れの、図面上秘匿された場所であった。この意味深な宝の流れも、皇帝の権限が働いている結果と考えれば希世も合点がいく。(あれは、皇帝の隠し部屋だったのか? 孔雀を迎えるための部屋……皇帝と観怜は今そこに?)彼は華鶴を追い求めて得た宮中の知見から、観怜がこの広い落果軒のどこに囚われているかある程度予測していたが、これまでの情報から辿り着いたのは違った答えであった。参内した鳥たちにあれこれと酒や果物を要求された希世は、それに従うふりをして一度この大座敷の裏口から外へと出た。皇帝との対峙を予感して、精緻な頬骨に緊張した力を働かせている希世には、美術品の行方に対する知的好奇心よりも、観怜の身を案じた祈りが宿っている。彼ははやる鼓動を抑えながら、やはり『恋の時節』がもたらしたであろう、伴侶と惹かれ合う奇妙な衝動につき動かされて、隠された部屋へと歩き出すのであった。  ……時を少し遡ること、皇帝の手の者によって連行された観怜は、古宮の最奥、皇帝が政を執り行う太正殿(たいせいでん)の静まり返った大広間に一人残されていた。世間の動向に疎い観怜ですら、暗い火が灯る太正殿の不気味な沈黙、夜中とはいえ人の行き交いの異様な少なさに、皇国の政が日々歪に機能していて、その歯車を軋ませていることを悟ることができた。彼は漠然とした不安を滲ませた目を凝らして、芸術を愛した過去の皇帝が魂を分けて造り上げた建築に刻まれた時間を見据えていた。希世との別離は観怜の想像以上にあっけなく成され、それを淡い想い出にする間もなく『皇帝の鳥』に仕立て上げられる手筈だったのだが、浴場で世にも珍しい羽と煽情的な肢体を持つ孔雀を間近に見た幸運な官吏たちが、好奇、好色の下卑た視線を観怜の裸体に絡めてきたので、怒りに任せて彼らをその百の目で威圧した結果、皇帝自ら孔雀を品定めするという話になったのである。時間をかけて何とか直した、薄い朱色が差し込まれた苅安色の着物の袖口を握って張っている観怜の手や、皇帝の登場を待つために慣れない組み方を強要されている脚にも緊張と放心があべこべに張り巡らされている。(あの鶴と会えなくなった希世も、こんな気持でぼくのところに来たのだろうか……)思えばこんな風に他人の感情を推察して理解しようとすることが、希世と出会うまでの観怜には無かった。人間との間で恋が燃える、鳥の一生を輝かせるきらめきが、観怜に心の精緻なニュアンスを与えて、付けられた傷の痛みを知覚しながらも抑え込んでしまう欺瞞を彼に覚えさせてしまった。観怜がその脚に痺れを感じかけていたとき、彼の眼前に広がる、立派な毛氈の上にある、主を戴かない空白の玉座の後ろの影から、変声期を終えて羽化した、艶のある瑞々しい少年の声が降ってきた。  「……余が、天子である。皇国を統べ、鳥を――孔雀を飼う者」  観怜は初めて聞く皇国の為政者の言葉に、ぱっと伏せていた頭を上げた。古宮の礼法の通例を知らない観怜の、自身を愛玩物のように『取り寄せ』た不躾な人間に対する純粋な興味や反感が混ざった表情を壇上から無感動に見下ろしている皇帝は、希世や観怜よりも年若い外見をしていた。天上の神から頂いたという、彼の血に流れる魔術の要素が、肉体の老いを否定しているために、完全に大人になりきらない夢間のような揺蕩う時間をその身に映しているのである。数々の勲章を横切るようにかけられた錦の帯(サッシュ)が目を引く皇帝の軍服姿は、観怜の目になかなか馴染まずにいた。皇帝が階段を下る度に金属の擦れる小さな音が鳴り、彼が帯剣していることを伺い知れるが、観怜はそれに気づいても息を飲むばかりであった。万物の上に立つという皇帝が観怜の傍まで来て、尊大で冷血な視線を孔雀の息づく羽に投げたと思うと、魔除けの化粧で彩られた瞳を大きく見開いている観怜の顔に自身の顔を急激に近づけると、歓喜を弾けさせて猟奇的な笑みを浮かべた。  「孔雀、孔雀……浄土の鳥。ずっと欲しかったのだ。狂いだしそうなほど、その全てが」  戸惑いが恐怖に瞬時に切り替わった観怜の羽を乱暴にむしり取った皇帝は、観怜が痛みに顔を歪めているのを恍惚として眺めながら、その青緑を口に含んで咀嚼し、喉を鳴らして美味そうに飲み込んだ。異物の感触を全く不快に思うことのない皇帝は、羽の形や材質が食道や胃を刺激するのを心底楽しんでいるのである。(こいつ……食った……ぼくの羽)アシンメトリイとなった羽を愕然と見つめる観怜の焦燥を、皇帝は意にも介していない。  「孔雀。余の心からの蒐集物(コレクション)を見せてやろう。来い」  観怜の返答を許さない性急さで彼を乱暴に抱き寄せた皇帝は、その張りのある右指を不規則に動かして魔術を発動させると、彼らの姿はすっかり消失してしまい、太正殿の中は再び時も人も動いていない静けさで満たされた。鈍い輝きを放つ古ぼけた玉座だけが、闇の中で皇帝の奇術を目の当たりにしたのである。
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