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さる展覧会
太正殿の景色が、観怜が瞬きをしたごくわずかな隙に全く異なったものへと変化したという事実は、彼の間近に皇帝がいなければ自身の知覚や認識が狂っていることを真っ先に疑うべきところであっただろう。点々と不規則に置かれた無尽灯に油を供給する永久機関が無意味な運動を続ける中、観怜は縮まっていた羽を呼吸に合わせて広げたが、その百の目の一つ一つを通して伝わってくる身の毛もよだつような感覚に強い眩暈を覚えることになった。不可視の力を外界と交換する百の目を戦慄させるものの正体は、物体ではない何かであるように観怜にも感じられた。
「……ここは?」
反射的に遮断したはいいが、この空間から受けた印象を振り切ることができず、嫌悪を露わにしている観怜の問いに皇帝は答えない。観怜は均衡の取れない光源によって視点が曖昧になっているこの部屋が何を示唆しているのかしばし考え込んでいた。夜明けを迎える空の色を映した壁を背景に組まれた格子の骨組みは歪んでいて、その仕切りの中に何らかの力で歪められた染付や焼物、喫茶具が不安定な格好で飾られている。皇国博物館が収容するこれらの名品がそれぞれに、観怜に正常と異常の分別がつかなくなるような感覚を生じさせているようであった。彼は湧き上がってくる恐怖から必死に出口を探したが、皇帝の支配下にあるこの空間から容易に逃げ出せるとは思えなかった。
むしろ、その危機回避の本能が(いや、今更逃げて行くところもない……)と行き詰った現実を浮き彫りにしただけであったので、観怜はやはり深く落胆した。床には割れた皿や硝子細工の鋭利な破片が散らばっており、その細かな粒子が観怜の着物の裾に付いて、彼が重たい足を動かすと、さらさらとした微かな音を立てて引きずられた。皇帝の蒐集物(コレクション)を彼の『常軌を逸した』美意識によって再構成したこの部屋は、物質的な扉を持たない。皇帝はあの格子から旧い時代の、火と銅の釉薬により生み出された三色が色の調和を作り出している杯を取り出して、その中に満ちる液体に口を付けた。皇帝のくぐもった愉悦の笑い声が観怜の耳をじわじわと打つ。ようやく手に入れた孔雀にどんな愛を与えようか空想するだけで、彼は陶然と酔いしれた気持になるのである。舌と喉を飲み干した液体で熱くした皇帝が、怯えきっている観怜にその衝動を一心に向けて歩みを進める。(……希世、希世)観怜は内心で、遠い恋人の名を祈るように繰り返し呼んでいた。希世の空虚な心を自身で満たし、彼に真に愛されることが、観怜の最も強い望みであることを、この時彼は少年と青年の狭間で停止した皇帝の渇求に晒されながら骨身に染みて理解したのである。彼は生来の勝気さで、皇帝に希世のいる心まで明け渡すまいと群青の双眸に抵抗を現していた。皇帝はそれを興じて孔雀に見入っていた。しかし部屋で一等立派な額縁に入れられた、黒々とした濃い紫の着物姿の、首の無い鳥の青年が、数枚の絵図の散らばった敷物に寝転がっている油絵に揺らぎが一瞬生じたのを察知して、皇帝は孔雀の情人ではなく、残忍で華麗な、皇国を動かす魔術使いの顔になって、絵の中で消失している頭部に挑発的に語りかけた。
「貴様が取り返しに来た宝はこれか? それとも……孔雀か?」
皇帝がその指を持ち手に微妙な均衡で掛けながら掲げて、勢いよく投げつけた杯は、観怜の肩を越えて影の中へ飛んでいき、固い床に叩きつけられて割れた音が響いた。
「人間を入り込ませるなど、余の魔術に瑕疵などあるはずがなかろうに」
「わたしの鳥が、そこにいるから……」
その泉に落ちる木漏れ日のような柔らかい声は、確かに観怜が待ち望んでいたものであった。
「だから辿り着けたのです、皇帝陛下」
宦官の変装のまま頭を垂れている希世は、帽子を右手でゆっくりと外して謎めいた美しい微笑を現した。異質な空間に降臨した救世主は、この場に飾られたどんな美術品よりも輝いて観怜の目に映っていた。希世の存在という奇跡の立証を、彼に触れて実感しようと飛び出そうとしている観怜を乱暴に抱き寄せた皇帝の顔には、国をも覆う魔術を破った人間への興味と、新たに得た鳥の肉体への耽溺を邪魔するものを排除したいという激情が、画布(キャンバス)の上で重ねられた絵具のように自我の境界を無くして並んでいた。
「余から孔雀を取り上げるか? 恐れ知らずの文官よ」
「わたしの命に代えても」
希世の断言には妙な現実性と実行可能性があった。彼の意思や覚悟の強さは、一度は恋人との再会に感極まった観怜の心情を逆に氷柱で突き刺してしまうような鋭さを伴っていた。(希世はぼくとの約束なんて忘れてしまってるんだろうな)『恋の時節』が引き合わせた人間に嫁いで、重なる時間を共に生きていくという新たな生活を希世に見出しかけたとき、観怜の幸福は急速に危険な岐路に立たされることになった。この場を観怜一人だけ残して切り抜けさせることは、いつかの約束の否定に他ならない。(……ぼくから離れたら、許さない)自己犠牲と生への諦念で成り立っている希世に対して湧きあがる憤りが、希世と二人でこの空間を出るという決意の活力となって観怜に循環し始めたのである。希世もまた、多くはない戦略上の選択肢を素早く吟味していた。
「鳥の血が、陛下の魔術の根源なのでしょう。今から召し上がりますか、その孔雀を」
希世は割れた杯の欠片を拾い上げてその全面をまじまじと眺めた。皇帝が先ほどまで薬酒のように飲み干していた、名前も知らぬ鳥の温かい血が欠片から滴っている。希世の発言の言外の意図がすぐには分からなかった観怜も、初めて感知した、辺りに漂う嫌な臭いが同胞の生血によるものだと知り、息を飲んで皇帝の平然として冷淡な横顔を見やった。(この男は……鳥の血や肉を食うのか? ぼくの羽を食ったみたいに?)緻密な彫刻細工が巡らされた唐木の机の上に置かれた、蒔絵入りの銘々皿や青磁の菓子鉢の中には、『食事』の途中であろうか、名前の代わりに残っている数枚の羽と共にまだ赤い臓物の一部がべっとりと残されていた。鳥の臓物を食い続けると、肉体を永遠に造り替えられるという吐気を催す伝説、魔術と不老の秘密を確信のもと提示した希世という人間に感じる一抹の感情に付けられた畏怖という名を、皇帝はこれまでの生涯で知り得なかったのである。
「愚問だな。そうする、と言ったら貴様はそこで見ているか?」
皇帝が剣を抜き、その刃を手慣れた手つきで観怜の首に当てた。道楽に走った屠殺人を思わせる、一撃までの猶予を相手に与えて、その優越感を存分に楽しんでいる皇帝を苛烈な瞳で見据えている希世は、もし彼自身も精神の均衡に異常をきたしていたら迷わず斬りかかっていそうな危うさを纏いながら滔々と答えた。
「わたしの本意など、陛下はよくお分かりになっていらっしゃるかと存じますが」
「……華鶴だけでは飽き足らぬか。博物館の蒐集家よ。強欲なことだ」
愚鈍な君主の顔の裏で、古宮に出入りする人間を綿密に観察している皇帝は、対峙しているうちに希世の過去を思い出して、ふと愉しみの光を失って遠く過ぎ去った時間を回顧しているようであった。皇帝の鳥であった華鶴と心を通わせていた青年は、密通という大罪こそ犯さなかったものの、見え透いた不穏分子として認識されつつも、広い古宮という海に泳がされていたのである。存在だけは知っていた鶴の名を聞いた観怜は、希世の心痛に由来する反応を予測して不満げにちょっと眉を顰めたが、当の希世には少しの動揺もなかった。
「我が皇国は、隣国の火に晒されている」
皇帝は剣を鞘に収めると、観怜を半ば抱えるようにして歪んだ美術品を背にもう一つの空間へと希世を誘った。世界の加熱した産業発展が、旧時代からの漫然とした延長線の上に建つ、斜陽の皇国を食い物にしようとしているという危機感は、古宮に仕える人間には共通の認識である。
「皇国のために、鳥が、鳥の血が必要なのだ。貴様の先程の推論も華鶴の入れ知恵だろう」
夜空にかかる花火の魔術による牽制と抵抗を維持するのに、どれだけの鳥の生命が必要なのか、希世にも見当がつかない。
「孔雀を皇国の――余のものとすることこそが命題であったのだ。この世で最も美しく、浄土に住まう鳥」
皇帝が歩みを止める。希世は観怜の私室で使われているような一面の緑に、金だけを惜しみなく使って孔雀の群れが描かれた壁画を見上げていた。(皇帝の心……)という印象を希世は真っ先に受けた。羽にある目の一つ一つも見事に表現された壁画は、孔雀という唯一無二のモチーフへの偏執的な愛着を鑑賞者に伺わせる。しかしその美しい孔雀たちは手足を欠いていたり、羽をぼろぼろにちぎられていたり、閉ざされた芸術の中で蹂躙され尽くしていた。孤高の存在であった孔雀を、皇帝自身の手で傷つけて破滅させたいという欲望は、観怜を魔術の維持装置として欲する意思だけではない、暗く揺らめく恋の炎そのものでもあった。
「愛する鳥を食ったら、さぞ美味に感じるのではないか」
壁画の金色の不規則な輝きを背にして希世に問いかける皇帝は、孔雀の恋人たる希世に挑戦を仕掛けているのである。希世が観怜を愛しているという前提を皇帝が持っていることは、観怜の心をほんの少しだけ慰めた。華鶴の生前の願いが、彼を救い出してくれるかもしれない希世に自身の心臓を食らわせて長命を与えることであったという秘密がある事実は観怜には知り得なかったが、この皇帝の問いかけに対して、ここだとばかりに希世は一世一代の取引を持ち掛けた。
「自分の鳥を食らうなど、わたしにはできません。……陛下、その剣でわたしの首を刎ねて下さい。わたしの鳥が食物に成り下がる場を見ずに済むよう、お慈悲を賜りますよう」
「お前、何を言い出すんだ」
「そうか。恐れなき文官よ。余の魔術に干渉するものにしてはいささか残念な幕切れだな」
希世が完全に自身を諦めてしまったと感じた観怜の、皇帝を振りほどかんばかりの憔悴と怒りを、希世は(わたしを信じろ)と人を従わせてしまう強い力をまっすぐな瞳に込めて反射していた。百の目の絶対的効力の発動を超えて、希世の可視化されない――わたしを信じろ、必ず君を救ってみせる、という想いを群青の瞳で受け取った観怜は、更なる奇跡を信じてわずかに頷いた。(希世なら本当に世界を変えてくれるかもしれない)観怜は思わず自身の指同士を絡ませるようにして、勇敢な恋人のためだけに祈りを捧げた。皇帝の振り上げた剣が空を切り、希世の頭上にきらめいたとき、希世は観怜が思わず叫び声を上げたのと同時に懐中していた瓶の蓋を開けて、あの鮮やかな、人の心を狂わせて惑わせる緑の顔料をその顔へ流した。
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