0人が本棚に入れています
本棚に追加
魔術空間
希世の前髪の先から滑り落ちて、額から頬へ流れていく、人工の魔である緑の粉――この顔料が内包する終末的意味は、芸術の流行の移ろいと技術革新の影にすっかり身を隠していたので、その真意を瞬時には解釈されなかったのである。よって、粉末の柔らかい感触に心地よさすら見出している希世の、文脈も意図も無い奇行のようにこの場の面々には映ったかもしれない。しかし、自然の何よりも深い緑を浴びて心から快哉を叫びたくてたまらないという希世の一点の曇りの無い笑みが、他者の生命に頓着する考えなどこの世に生を受けて以来持ったことのない皇帝の一閃を確かに躊躇させたのである。希世が頬の上に残っている粉を指で横に真っすぐ引くと、その線は濃く乗せすぎた頬紅のように明瞭な色を浮かび上がらせた。
「緑とは最も美しい色だと、陛下もそうお思いになりませんか」
「余と美術談義がしたいのか、生き永らえたいのか、貴様の望みは何だ」
「孔雀に心惹かれる者同士、有意義な会になるかと存じます」
口内の鳥の血を執拗に舐めとっている皇帝は、彼と大枠の部分で共通した審美眼を持つ希世の、緑に染まった指先を間近に見せられて押し黙った。希世が指を擦り合わせると、緑が様々に色合いを変え、爛漫とした孔雀の羽の色となって現れた。夢見ていた至上の鳥の色に満悦している希世に、皇帝は自己の蒐集物コレクションを踏み荒らした無知蒙昧な愚者の印象を抱いた。彼は腕に抱えていた観怜を床に放り出してしまうと、明確な殺意を漲らせて再び剣で希世の喉元を狙っている。血と臓物を外界に晒して折り重なっている、壁画の金箔の孔雀たちが皇帝の後ろで妖しげな輝きを放って、希世の頬を染める緑を照らした。
「――この顔料は、緑という色を創り出す代償に神経毒の成分を含んでいるのです」
皇帝のもたらし得る数々の脅威にも、今まで抜かれることの無かった、希世の懐刀が皇帝の剣と競り合う金属音に紛れて静かに告げられた顔料の真実に、倒れこんだ拍子に着物の裾に引っかかって足をじたばたともつれさせている観怜がばっと頭を上げると、希世と皇帝が斬り結んでいるしなやかな躍動が視界に入ってきた。小棚に納められた曜変天目茶碗や透き通るような薄水色の香炉、などの現代では製法の失われた宝物が剣戟による振動で揺れる中、観怜は幼い頃母親から聞いた孔雀という鳥の血に流れる力と、シェーレ・グリーンの名のついた顔料が人間たちにもたらす結末をそれぞれに考えて、さすがの希世も万事休すかと力を失った脚を着物の上から撫でつけて状況を見守るほかなかったが、(希世と……生きる)その小さな、しかし折れない確かな希望を胸に留めていた。希世の戦略には観怜が孔雀であることと、希世と皇帝が人間であることが特に重要な手口(トリック)であるらしかった。希世の隠し持つ最後の仕掛けは観怜の思考能力では追いきれなかったのだが、代わりにただひたむきに恋人を信じていたのである。
「顔料で余と心中しようと? 馬鹿げた真似を、博物館付き!」
「風の巡らないこの閉じた空間にいる以上、顔料の毒は回り続ける……」
的確に首を狙う皇帝の太刀筋に対して、希世はそれに応戦しているというよりも銘入りの小刀を手に舞っているかのようであり、孔雀への憧憬が生み出したこの空間に相応しい、風流な間を感じさせる足さばきで皇帝の剣を流していた。希世のその洗練された戦術は、緊張した戦況において、観怜に恋人の晴れ舞台を誇らしく思わせるような、やや場違いな感想を抱かせるほどであった。
「わたしに近づいた以上、発散した毒は血管を通して、魔術の根源そのものにも入り込む。……陛下一人が退却されるくらいの力は残りましょうが」
希世の狙いは顔料がその効力を示すまでの時間稼ぎであった。文字通り人間離れした所業の結集である魔術も、原動力たる血液に異常が起これば修復には時間と休息を要する。皇帝の命を奪わず、観怜だけを連れてこの場から逃げるという難題に対して希世の出した答えが正解となるには、彼にも『等しく』神経毒が作用するという、いわば希世自身の存在との等価交換であるかのように皇帝にも思わせる必要があった。皇帝と希世が打ち合う鋼の響きが次第に音を弱めていく。観怜だけが変調をきたさずに、しかし精神は動揺して、羽を動かしながら淀んだ空気をかき混ぜている。顔料を至近距離で被っていた希世が先に倒れ、皇帝もほとんど同時に剣の先を床に刺して、荒い息をしていた。皇帝はじりじりと希世に近づいたが、たおやかな腕の筋肉にも毒が回り始めたのか、剣を持ち上げるのがやっとであった。
「孔雀の主が何者たるか、分かったか? そも小手先の毒で余に挑むなど、笑止千万である。血は濾過され続けるというのに」
床に伏している希世はどうにか目を開いて、朦朧として錯綜した視線を、孔雀を巡る戦いに引導を渡した達成感と、これから味わえる美食の味を想像する興奮に高揚して口元を歪めている皇帝に当てて、焦点を合わせようとしていた。ここで眠ってしまえば、希世が打った戦略、一押しの賭けが水泡に帰してしまう。華鶴を失い、魂の抜け殻となって暗中に生き永らえていた希世は、自身の煽った緑の顔料によって呼び起こされた、心の奥底にしまい込んでいた願望――観怜と明日も生き続けたいという眩しい希望、昔日の約束と真に向き合っていた。(観怜……観怜を一人には、しない)しかし、永く魔術を行使してきた皇帝の血は希世の想定していた以上の速度で、食材として供された鳥たちのそれによって癒されるだけではなく、循環して、より強固になっていたのである。皇帝の剣先が、希世のぼやけた視界の一点に、厚い雲の中に差す陽のように光った。
「……最期の一時には最上の緑に囲まれたいと、常々思っておりました」
「それが辞世の句か。つまらぬな」
荒い息と共にそう吐き捨てた皇帝が痺れ始めた腕で剣を振りかぶる風音に、希世の本能は急速に研ぎ澄まされた。
「そう、緑に……孔雀の羽のような緑に」
身体の隅々まで緑の呪いを享受した希世が、何か意思によるものとしか言いようのない力で再び立ち上がろうとしている。眠るような死に抗いただ生き続けようとする希世のひたむきさに、観怜は恋人に対するこれまでの不理解や誤解を振り払う確信を得たのである。彼は希世の手から落ちていた懐刀を拾い上げて、柄を強く握りしめた。護身用のこの刀は世にも珍しい刃文を持つ逸品であった。
「ぼくと希世に近づいてみろ、皇帝だろうと容赦しないからな。ぼくだけは毒を吸ったって何も起きないんだから、『人間』の負けなんだよ」
孔雀の血は神経毒を跳ね返すという、観怜の母親がまだ羽の生えたばかりの彼の手を引きながらかつて語った伝承は紛れもなく真実であったことに驚いていたのもつかの間、殺伐とした場で絶対的に優位に立てることに気が付いた観怜は、鳥の同胞が生きたまま解体されている過程を永遠に保存しているかのような空間芸術に対する嫌悪や恐怖もすでに無く、皇国の君主に対しても普段通りの恐れを知らない激しい気性を存分に拙い言葉遣いで発揮していた。恋人への献身で皇帝に対峙する、気の昂った観怜の見事に広げられた羽と百の目の色的調和は、希世に緑とも虹色ともとれる色彩美の極致を見せたので、希世は混濁する意識の中で崇拝すら感じていたのである。血を蝕まれた皇帝の剣は鈍く、剣など今日まで触ったこともない観怜でもある程度は打ち返せそうに思われた。壁画の図柄のようにこの孔雀を捌いて食い尽くしてしまいたいという、血と魔術の修復のための、あるいはそうしなくてはならないといった使命感に駆られた食欲の強烈な衝動が、乾いた皇帝の喉を刺激するように湧きあがり、ついに観怜の構えた懐刀と接触するかのところで――皇帝の剣が、扉の無い魔術空間に舞い降りた、雪に紛れてしまえるかのような白い羽で空に浮いている青年の胸を刺し貫いていた。
最初のコメントを投稿しよう!