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1.国境の町ゾフカ
ドンッ、と背後から肩をぶつけられてよろめいた。転びはしなかったが、小脇に抱えていた楽譜が石畳に落ちてしまった。数人分の忍び笑いが聞こえて、足音が遠ざかる。素早く振り向いたが、犯人達の姿はない。既に廊下の角を曲がったようだ。
屈み込んで足元に散らばった楽譜を拾い、やれやれと息を吐く。どうせ犯人は分かっている。同じ聖歌隊に所属するレオニードとその仲間のイワン、ドミトリー達だろう。ミハイル神父様は『人を疑ってはいけない』と言うけれど、僕には分かるんだ。アイツらは、僕の外見――クラリナ人らしからぬ色素の薄い白い肌と金色の髪、アイスブルーの瞳を嫌っている。だけど仕方ないじゃないか。これは父さんから受け継いだ隣国ロマール人の遺伝的特徴なんだから。
「イゴール、ここにいたのか」
顔を上げると、親友のピョートルが駆けてきた。
「またアイツらの嫌がらせか」
「気にしてないよ」
「リョーニャのヤツ、復活大祭で、中央を君に取られたのを根に持ってるんだ」
クラリナ人特有のオーク色の瞳を吊り上げて、怒りを顕わにしてくれる。この友がいるから、僕は穏やかでいられるんだ。
「歌えるなら、僕はどこでもいいんだけど、神父様が決めたことだから」
「そりゃそうだよ。君の方が断然上手い。それにリョーニャはそろそろ変声期だろ」
僕ら聖歌隊は、聖体礼儀の度に聖歌を捧げる。先週の日曜日は、年に12回ある大切なミサの内でも特に重要な「復活大祭」だった。この日、僕は聖歌隊の最前列の中央で歌った。ここは最も美声でファルセットの上手い者が選ばれる位置であり、とても名誉なことだ。家族は喜んでくれたけれど、ひと月前まで中央で歌っていたリョーニャには許せなかったらしく、取り巻きの2人と組んであからさまに嫌がらせをしてくるようになった。
「僕も、あとどのくらい歌えるのかな」
「うーん。神父様は、平均は15歳だって言ってたけど」
「そっか。じゃあ、卒業するまでは歌いたいな」
教会を出ると、雲が桃色に染まっていた。5月も半ば、次の日曜日には「携香女の主日」のミサがあり、来月の進級試験が終わると夏休みだ。進級試験に合格すれば、9月からは9年生――義務教育の最終学年――で、その先は進学する者、仕事に就く者、道は分かれる。
「イゴール、本当に学校辞めちゃうのか」
「うん。特別な才能もないしね。父さんと一緒に石炭を掘るよ」
「勿体ないよ」
歌うことは好きだけど、歌を仕事に出来るまでの才能はない。3つ下の妹もいるから、僕は父さんが勤めている炭鉱会社に入って鉱山で働くんだ。
「君は、ソニークのギムナジウムに行くんだろ」
「ああ。俺、色んな国の言葉を学んで、外国で働きたいからな」
「ペーチャなら、叶えられるよ」
「ははっ。ありがとう」
ソニーク市は、ここゾフカ市より約800km西にあるクラリナの首都だ。言語、音楽、数学、美術など、様々な学問に特化した高校や大学があり、国内各地から才能に秀でた若者が集まるという。ペーチャは、今年ユゾフ州で開催された英語のスピーキング大会で3位になった。ギムナジウム編入試験も容易く合格するだろう。
茜色の空がゆっくりと暮れていく。ずっと並んで歩いてきた僕達も、1年後には違う道を歩いているんだ。
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