五、頓病神

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 山頂は鬱蒼と生い茂る木々のせいか、雨粒一つも感じられない。  一際大きな木の下には、木片や枝ででたらめに組み立てられた祭壇のようなものが置いてあり、そこにはつるりとした光沢を放つ髑髏(しゃれこうべ)が鎮座していた。  トンビョガミたちは祭壇の前にひれ伏すと、日本語によく似た言語で祈りを捧げる。加賀美はその後ろ姿を地面に倒れ伏したままぼんやりと眺めていた。  ——お兄さんはどうなったんだろう。  トンビョガミたちが千尋に害意を向けていたのは明らかだった。  危ないと思った時には体が勝手に動いていて、気付けば千尋の襟首をつかんでいた。とっさに彼を崖下へ突き落としたのは、それしか彼を逃がす方法が思いつかなかったからだ。  あの高さから落下したのだから、無傷では済んでいないだろう。しかし彼の安否を確かめる手段はどこにもない。  加賀美は口に溜まった血を吐き出す。  千尋を逃した後、トンビョガミたちに捕まった加賀美は彼らにさんざっぱら殴られた。  今までの人生で誰かに殴られたことなど一度もない。殴られるというのは想像していたよりもずっと痛かった。最初は必死に抵抗したが、どうあがいても止まない暴力の雨にそのうち抵抗する気力も消え失せて、ただ殴られ続けた。  加賀美が抵抗を止めてしばらく、彼らは動かなくなった獲物に満足したのか、加賀美の手足を縛りつけると引きずるようにして祭壇の前に放り出した。  加賀美はぼんやりとする頭で、四肢が切断された男の死体を思い出す。トンビョガミは人を食うのだと手記にあった。自分がどのような末路を辿るかなど想像に易い。  トンビョガミたちは祈りを終えると、加賀美の手足を拘束する縄を解いた。解放されることを願ったが、数人がかりで体を押さえつけられ、どうしようもない現実を知る。  彼らのうち一人が刃先の黒ずんだナタを手に持っているのが目に入った。おそらくそれで手足を切断するつもりなのだろう。意識のあるまま解体されることに絶望するが、抵抗しようにも強い力で押さえつけられていて、逃げることはできない。  これから自分を襲うであろう激痛に備えて歯を食いしばる。人を助けた代わりに死ぬのだ。恥も外聞もなく泣き喚きながら死ぬよりも、人を助けた自分を誇りに思いながら死にたい。  噛み締めた奥歯がガチガチと音を鳴らす。怖い。嫌だ。死にたくない。大丈夫。助けて。目まぐるしく変わる感情に全身が震える。  恐怖だけが己を支配する世界で、加賀美は耳をつんざくような轟音を聞いた。辺り一面に響き渡るような甲高い悲鳴を聞いて目を見開く。ナタを持っていたはずの白い人影が血を流して蹲っていた。  加賀美はこちらに近付いてきた新たな人影を見て言葉を失う。  千尋が——命に代えて助けたはずの存在が目の前に立っている。泥と血で全身を汚した彼は構えていた猟銃を下ろすと、ぼんやりとした眼差しを加賀美に向けた。 「巽さん……?」  千尋の異様な風体に加賀美は震える声で呼びかけるが、千尋は加賀美の呼びかけに応えることなく、蹲っていたトンビョガミに向かって再び発砲した。辺りに血が飛び散り、今度こそトンビョガミは動かなくなる。  加賀美が呆然としていると、千尋は猟銃を投げ捨てて、肩に下げていた火炎放射器を構えた。千尋はそれに火をつけて、獣のような咆哮と共にトンビョガミたちへ突進する。燃え盛る炎に彼らは蜘蛛の子を散らすようにして加賀美から離れていった。 「終わらせるんだ、もう。なあ、お前らもこんな日陰で生きるのはたくさんだろう」  火炎放射器を持って佇む千尋はどこか遠い目をして、ぶつぶつと独り言を喋るように呟いた。 「話しなんか通じるわけないのにな。わかってるよ。いいんだ、もう。全部終わるんだから」  千尋は火炎放射器を振り撒きながらトンビョガミに近付くと、散り散りになっていた一体の首元に草刈り鎌を突き立てた。勢いよく噴き出す血飛沫で全身を赤く染めた千尋は、慌てふためく様子の彼らをスパナで殴りつける。そして死体が握りしめていたナタを拾い上げるとその腹を思いきり斬りつけた。  十二体目の死体が地面に転がった頃、辺りはようやくもとの静けさを取り戻した。 「巽さん」  加賀美の声に千尋がゆっくりと顔を上げる。血が顎先から滴り落ちていくのを見て、加賀美は胃から込み上げてくるものを感じた。 「さあ、早く山から下りよう」 「下りようって……この人たちは」 「人?」  千尋は首を傾げると、火炎放射器に入っていたガソリンを祭壇に撒いて火をつける。 「何してるんすか」 「何って……全てを終わらせるんだ。こんな場所は燃えてしまった方がいい。これでこの村は平和になる。あとは僕たちがここを去るだけだ」 「この人たちごと燃やすつもりなんすか」 「人じゃないよ。彼らはトンビョガミだ。人じゃないんだよ……」  千尋は自分に言い聞かせるように呟くと踵を返して山を下りていく。  加賀美は燃え盛る炎の中、遠くなっていく彼の背中をじっと見つめることしかできずにいた。  
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