一、トンビョガミの祠

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一、トンビョガミの祠

 胸のあたりに感じたずっしりとした重みに、(たつみ)千尋(ちひろ)は目を開けた。  平素であれば驚いたかもしれないが、今日ばかりは違う。この重みに心当たりがある。  ぼんやりとした視界に映る白くてもさもさとした毛の塊に手を(うず)めて撫でると、それはふわふわと揺れた。  千尋は枕元に置いていた眼鏡に手を伸ばす。 「コテツ。兄ちゃん、まだ眠いんだよ。あと五分だけ寝かせてくれないか」  千尋の体の上を占拠していた柴犬——コテツは千尋の言葉に首を傾げるような仕草をすると、キュウ、というか細い鳴き声をあげた。  その鳴き声を了承と取って、千尋は再び布団に潜る。実際コテツは大人しく千尋の体から降りると、枕元で丸くなってじっと千尋を見つめていた。  時々、犬は人の言葉を理解しているのだと思わせられる時がある。人間が軽い気持ちで言った言葉を犬は律儀に覚えていて、その約束を守ろうとすることがあるのだ。  千尋は布団に寝そべったままちらりとコテツに視線を向ける。コテツは相変わらずどんぐりのようにまるまるとした黒い瞳で千尋をじっと見つめていた。その視線に若干のきまりの悪さを感じて、千尋は布団から起き上がる。 「そうだよなあ。散歩、行きたいよな」  枕元で丸まっていたコテツの背中を両手で何度も撫でると、コテツはワフ、と空気の抜けるような鳴き声をあげた。尻尾を揺らすコテツを横目に見ながら、千尋はスマートフォンへと手を伸ばす。  時刻は午前五時。昨夜は夜中の一時に布団へ入ったのだから、四時間ほど眠ったことになる。近頃の状況を考えれば、これでも眠った方だった。昨日の作業がよほど体に堪えたのだろう。 「朝ご飯食べてから散歩に行こうな。コテツもお腹が空いただろう」  千尋は適当に布団を畳んで部屋の隅へと寄せた。  人の家の布団というのはどうにも寝心地が悪い。あの寝返りをうつたびにギシギシと不快な音を立てるパイプベッドですら、今は恋しく思える。  台所へ向かうために廊下に出ると、窓からはすでに陽の光が差し込み始めていた。  まだ涼しい早朝のうちに散歩へ行かなければ、日中は歩けたものではない。それでもこの町は千尋が住んでいる町よりもずっと涼しいような気がした。  さすが瀬戸内の軽井沢と呼ばれるだけのことはある、と感心してみるが、千尋は当の軽井沢を知らない。軽井沢はおろか京都より東に足を踏み入れたことすらないのである。だからこの町が本当に避暑地に(たと)えられるほど涼しいのか、千尋にはわからなかった。  そもそもこの町のことを千尋はほとんど知らない。知っていることといえば、この町が母の故郷であるということくらいなものである。 「朝ご飯用意するからちょっと待ってろよ」  台所に置いておいたドッグフードを皿に盛る。銀のプレートにドッグフードの粒が当たる度に、コテツは落ち着きを失くした様子で千尋の足元をうろうろとしていた。  木製の低い台に皿を置くと、コテツは大人しくおすわりをして千尋を見上げる。千尋はコテツの前にしゃがみ込んで「待て」と声をかけた。コテツの口からキュウウウ、と細長い鳴き声が漏れ出る。 「よし」  千尋の号令を聞くや否や、コテツは一心不乱に餌を食べ始める。  食欲のありそうなその姿に千尋は安堵した。やむを得ない事情があるとはいえ、慣れない環境にコテツを連れて来たことを不安に思っていたが、この様子を見るにそれは杞憂であったらしい。  自分も食事を取ろうと、千尋はダイニングテーブルの上に置かれたレジ袋から菓子パンを取り出した。椅子へ斜めに座り、パンの包装を乱雑に破り捨てる。一口かじりついてから、千尋は甚平のポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。  パンを咀嚼しながらぼんやりとニュースの見出しを眺める。  相変わらず毎日事件や事故が起きているが、千尋はそういった事柄にさほど興味がない。ただ社会人として世の中の出来事にまったく疎いのもどうかと思い、何となくニュースサイトの記事を読んでいる。  ずらりと並ぶ見出しを流し見していると、ある一つの見出しが目についた。 「(みなみ)海道(かいどう)市で強盗……犯人は未だ逃走中か」  一昨日の夕方、自分の住んでいる市でコンビニ強盗が起きたことは千尋も知っていた。  犯人はアルバイトの高校生を刃物で切りつけると、現金三千円をレジから盗んでそのまま逃走。幸い高校生は軽傷で済んだと聞いていたが、傷が治ろうとも他人から切りつけられた恐怖が消え去ることはないだろう。子供を傷つけてまで金を得ようとする人間の気が知れない。  防犯カメラの映像も公開されて、男の顔も世間の知るところになっている。捕まるのは時間の問題だろう。千尋は黒ずくめの服を着た男の姿を見て、そのようなことをぼんやりと考えた。 「お、食べ終わったの?」  無心でパンを頬張っていると、コテツが空になった皿の前で満足そうに舌でペロリと口を拭っているのが目に入った。千尋は残りのパンを無理矢理口に詰め込んで、リスのように頬を膨らせたままコテツの皿を片付ける。 「よし、行くか。部屋着だけどいいよな。こんな時間に人なんていないだろうし」  千尋は答えが返って来ないことを知りながらも、コテツにそう問いかける。案の定、コテツは散歩のことで頭がいっぱいなのか、そわそわとした足取りで千尋の周りをうろうろとするだけだった。  玄関に向かい、コテツにリードを取りつける。虫除けグッズや小さめの袋をポケットに詰め込んで、千尋はコテツと共に家を出た。
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