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顔を出したばかりの太陽が眩しい日差しを放っている。ジジジジ、とどこかで蝉の鳴き声が聞こえた。あと少しもすれば、耳を塞ぎたくなるほどの大合唱が始まるだろう。
見渡せど見渡せど青々とした水田しかない風景に、さてどこに向かって散歩をしに行ったものかと頭をひねる。
「本当何にもないなあ、ここ。なあ」
千尋は隣で尻尾を振っているコテツに話しかける。コテツは千尋の呼びかけに顔を上げたもののその表情は喜色満面といった具合で、未知の世界に興味を隠しきれない様子だった。
「楽しそうだなあ、お前。はしゃぐのはいいけど、その辺の草とか食べるなよ。お前が体調を崩したら母さんが悲しむんだから」
コテツは庭の草木の匂いを熱心に嗅ぎながらも、千尋の歩く方向へ懸命についていく。
庭から車一台が何とか通れる幅の道に出たところで、千尋は向こうから歩いてくる女性の姿を見た。帽子にエプロン姿という出立ちの女性は、両手に大きな荷物を抱えている。
千尋はその女性に見覚えがあった。
部屋着のままで人に会うのは恥ずかしいが、すれ違うのに挨拶しないわけにもいかない。少しの間逡巡した後に、千尋は女性に向かって会釈をした。
「どうも、ご無沙汰しております。昨年の祖父の葬儀では大変お世話になりました」
千尋に声をかけられた女性は「アラッ!」と甲高い声をあげると、早足で千尋のそばに駆け寄った。
「あらぁ、水槌さんとこのお孫さん! 久しぶりやねぇ。元気にしよった? 昨日から車が止まっとったけん、万里子ちゃんが帰ってきたんかと思いよったんよ。今日はどしたん? 掃除か何かしに来たん?」
矢継ぎ早に話しかけられて、千尋は苦笑いを浮かべながらも首を縦に振った。
「ええ、まあ。祖父の遺品を整理するついでに、家を片付けてしまおうと思いまして。母も来る予定だったのですが、風邪をひいてしまったので、僕一人で」
「あらぁ、そりゃ大変やね。それにしても修一さんが亡くなってからもう一年も経つんやねぇ。一人娘の万里子ちゃんも早くに家を出たし、奥さんもそれからしばらくして病気で亡くなられてねぇ。独りじゃ大変やろう思て、私も野菜や何やって時々お裾分けしに行きよったけん、すっかり寂しくなってしもたわぁ」
「祖父も親切にしていただいて喜んでいたと思います。ありがとうございます」
「ええんよ、狭い所やけんね。助け合っていかんと。千尋くんもおる間、困ったことがあればおばちゃんに言うてちょうだいね」
目前の女性の善良な言葉に、千尋は目眩がしそうになった。
千尋は祖父のことを知らない。本当に何も知らない。初めて会ったのは一年前——棺の中で眠る姿を見たのが最初で最後だった。
三十年間一度も会ったことのなかった祖父は、千尋の中ではただの見知らぬ老人であった。血が繋がっているというそれだけの理由で、祖父の死を悲しみ、その後始末をしなければならない。それが血の繋がりというものだと思う反面、誰もその状況に疑問を持たないことが奇妙にも思えた。
「そういえばお仕事は? 確か学校の先生をしよるんでしょう」
「ええ、まあ。今は夏休みなので……」
「あらぁ、そうなん。でも学校の先生って忙しいんでしょう」
「まあ、はい。それなりに」
コテツは人間たちの会話にすっかり飽きてしまったようで、つまらなさそうな表情のまま千尋の足元でぺしゃんこに潰れていた。その姿が何とも可哀想で、千尋は申し訳なさそう表情を浮かべると女性に頭を下げる。
「お呼び止めしてすみません。そろそろ散歩に行く時間なので……」
「ああ、ごめんなさいね。こちらこそ。まあ、可愛い子やねぇ。お名前は?」
「コテツです」
「コテツ君っていうの。キリッとしてハンサムな子やねぇ」
「はは、どうも……」
ぺしゃんこに潰れていたコテツは体にほんの少しだけ空気を入れると、女性の方をちらりと見遣った。
言葉の意味は理解できないが、褒められているというのはわかるのだろう。尻尾を小さく振って返事をする。その萎れた豆狸のような顔が千尋には一等可愛く見えた。
「ああ、これ、おばちゃんとこの野菜と果物。千尋君にもあげるけん、あとで食べて。万里子ちゃんの分も入れとくけん」
「えっ、いや、そんな申し訳ないですよ」
「ええんよ、遠慮せんといて。今からご近所さんに配ろう思っとったけん。散歩に行くんやったら玄関にでも置いとくわ」
「すみません、ありがとうございます」
女性は千尋がお礼を言い終わらないうちに慣れた足取りで庭へ入っていく。千尋は何とも言えない居心地の悪さを感じながらも深々と頭を下げた。
今度こそ本当に散歩に行かなければと、女性に別れを告げようとしたところで、千尋はふと目前に広がる水田の方へと目を遣った。
田んぼの向こうにあるあぜ道に、一人の老人が立っている。
妙に色の白い男であった。伸ばしっぱなしの白髪からところどころ透けて見える頭皮は、ぬるりと青白く光っている。着物のような衣服は随分と着古しているのか、ぼろ雑巾を身にまとっているようだった。髪の毛と見紛うほどに伸びた白髭からは紫がかった唇が覗いている。老人は遠くから見てもわかるほどに歯をガチガチと鳴らしていた。
その異様さに千尋は狼狽える。まるで山から下りてきた獣が人間を威嚇しているようだった。
いつのまにか千尋の隣に戻ってきていた女性は小さく息を呑んだかと思うと、耳打ちするように千尋に囁いた。
「あんまり目合わせちゃいかんよ」
「あの方は……」
「あの人は釜鳴さんいう川上の外れに住んどる人なんやけど、ちょっとその、ねぇ」
女性は頭を指差して首を横に振った。
川上というのは祖父の家がある集落のことである。老人は集落の外れに住んでいるということなのだろう。
「大声で意味のわからんこと叫んだり、何もないところに向かって鎌振り上げて威嚇したりして変な人なんよ。私らも迷惑しとるんだわ」
しかめ面で話す女性に千尋は「はあ、なるほど」と小さく返事をした。
病気や障害が原因で、傍から見れば奇妙な言動をとってしまうということがある。あの老人もそうなのかもしれない。
けれど千尋は自分の考えを目の前の女性に説明するつもりはなかった。女性からしてみれば、だから何だという話だろう。何が原因であれ、彼女にとって老人が迷惑であるという事実は変わらない。
自分はあくまで外からやって来たよそ者であり、彼女らの生きる社会をかき乱す資格など持ち合わせていないのだ。
「うちの義母なんかは、ありゃトンビョガミ憑きじゃ言うてね」
「トンビョガミ憑き?」
「まあ、それは昔の人の言うことにしても、近寄らんにこしたことはないけんねぇ。それじゃあ、もう行こわいね」
女性は一言、「お散歩邪魔してごめんねぇ」とコテツに手を振ると、足早にその場を去っていった。
「俺たちも行こうか」
老人があぜ道から動く気配はなく、千尋は彼を刺激するのも悪い気がして、水田とは反対側にある家の裏山へと向かう。
コテツはようやく散歩が再開されたことに喜んでいるようで、千尋が昨日とは違う道を選んだことなど気にも留めていないようであった。
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