五、頓病神

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五、頓病神

 千尋は手記を閉じると、力なくその場に座り込んだ。加賀美は千尋の顔を覗き込むようにしてしゃがみ込む。 「大丈夫っすか」 「大丈夫——ではないかな。頭がどうにかなりそうだ。正気の沙汰じゃない」 「確かにやばい話の連続でしたねぇ。まあ、トンビョガミの正体がわかっただけでも良しとしましょうか。しっかし、人が人を食べるなんてエグい話っすよ。強盗犯が殺されたってことは、未だに人を殺して食ってる感じなんすかね」 「そうなんじゃないのかな……」 「それで鉄っていう子が——多分あのおじいさんのことなんでしょうけど——水槌家の人たちが狙われないように守ってくれていたと」 「曾祖父の遺言に従ったんだろう。僕たちを追い出そうとしたのも、カガチとやらの子孫に狙われないようにだったんだろうね」 「すごいメンタルじゃないっすか。自分の人生を犠牲にして他人を守るなんて俺には無理っすね」 「そうだろうね。誰だって嫌だろう。曾祖父はあまりに身勝手だよ……父も母も祖父も、僕の家族は身勝手な人間ばかりだ! 先祖だっていう奴らもどうかしている! 自分の子供を牢に閉じ込めて何が知識の継承だ! こんな身勝手な連中のせいで僕は! 僕は……」  突然声を張りあげて怒りを露わにした千尋に、加賀美は面を食らったような顔をした。興奮する千尋を宥めるようにその肩に手を置く。 「とりあえず家に戻りません? このままここにいても仕方ないですし」 「下山するなら君一人で下りてくれ。僕は山を登る」 「それこそ正気っすか。もう夜っすよ。また滑落しても、俺責任取れないっすよ」 「君に責任を取ってもらう必要なんかないよ。この上にトンビョガミがいるっていうんだろう。僕は彼らに会いに行く」 「絶対やめといた方がいいっすよ。手記の最後の方もだいぶ参ってたみたいですし、どこからどこまでが本当かわかんないっすよ」 「事件の記録もある。地下牢も存在する。生き証人だっているんだ。仮に手記の内容に妄想が混じっていたとしても、それを確かめるためには上に行かなければいけない。もう振り回されるのはたくさんなんだ!」 「ちょっとハイになってません? 俺が言うのもアレですけど、一旦落ち着きましょうよ。これ以上登るなら明るい方がいいですって。明日、俺もついていきますから」  立ち上がった加賀美は困ったような笑顔を浮かべて千尋に手を差し出した。  千尋がその手をじっと見つめていると、近くの茂みが音を立てて揺れる。二人はとっさに音の鳴った方へ顔を向けた。  茂みの中から、ぬるりとした白い顔が二人を見つめている。千尋には見覚えがあった。浴室の窓からこちらを覗いていたあの白い人影だ。  その白い人影には髪もなく、衣服もまとっていない。抜けるように白い皮膚には鱗のような傷跡がびっしりと刻まれていた。  人影は茂みから次々と現れると、皆一様にニタニタとした薄気味悪い笑みを浮かべながら千尋に歩み寄る。  千尋は彼らが口々に何かを呟いているのを聞いた。その音は千尋たちの言語によく似ていたが、意味は到底理解できない。不気味な唱和のようであった。  千尋は蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けずにいた。目の前の光景が受け入れられず、体が言うことを聞かない。ただ呆然と彼らの真っ黒な瞳を見つめていた。 「巽さん!」  加賀美の叫び声が引き金となり、静寂が打ち破られる。  加賀美は蹲ったまま起き上がる気配のない千尋を力いっぱい引き上げた。千尋は加賀美にされるがまま立ち上がる。 「しっかりしてください、巽さん!」  周囲はすでに彼らに囲まれており、唯一の逃げ道である背後は断崖絶壁であった。  千尋は半ば諦めたような気持ちで立ち尽くしていた。おそらく彼らがトンビョガミなのだろう。人を喰らう(おぞ)ましい怪物でもあり、自分の先祖が生み出してしまった犠牲者でもある。  真っ黒な瞳が千尋に敵意を向けているのは疑いようもなかった。彼らは笑っているが、その瞳は純然たる殺意に満ち満ちている。  普通であれば抵抗すべきなのだろう。しかし甘んじてこの業を受け入れることが、自分の果たすべき贖罪であるようにも千尋には思えた。 「すまない……」  彼らに向かって一歩を踏み出そうとしたその時、千尋は凄まじい力で後ろに引き倒されるのを感じた。  体が宙に投げ出され、崖下へと落ちていく。その刹那、こちらを振り返った加賀美と目が合った。  青年はこれまで見たことのないような必死な目をしていた。その目を見て、千尋は青年が自分を逃すために崖下へ落とすという賭けに出たのだと理解した。  加賀美に向かって手を伸ばそうとしたが、千尋の体は無情にも暗闇の中へと埋もれていく。強い衝撃が体全体に加わり、斜面を転がるようにして落ちていった。  枝が体を切り裂き、石や岩が体を打ちつける。痛みで叫びたくなったが、声も出ない。視界が暗転していく中で、千尋は加賀美の無事を祈りながら意識を失った。
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