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頬に冷たいものが落ちる感覚に、千尋はゆっくりと目を開けた。
全身を鈍い痛みが襲う。もう起き上がるのすら億劫だというのに、それでもまだ自分は生きている。
「どうして僕を助けてしまったんだ」
千尋は冷たい地面の上に這いつくばったまま絞り出すように呟いた。その疑問に答える相手はもういない。聞こえるのは降り注ぐ雨の音だけだった。
このまま眠ってしまいたいのに、最後に見た加賀美の目が瞼の裏に焼きついて離れない。
あの青年はきっと、何の考えもなしに自分を崖下へ落としたのだろう。隣にいる人間を助けようという一心でそうしたに違いない。変わってはいるが、根本は善良な青年なのだ。
考えなしにも程がある、と千尋は呆れて笑う。トンビョガミが恨んでいるのは水槌の血筋なのだから、あの青年は彼らに自分を差し出すだけで良かったのだ。青年の足ならば、それで十分に逃げおおせただろう。
「どうして君は僕を助けてしまったんだ!」
千尋の叫びは雨にかき消されて、誰にも届くことはなかった。
本当はずっと前から疲れていた。もう父や母に、自分の感情に振り回されるのはたくさんだった。早く終わらせてしまいたかったのだ。幕引きを自らの意志で選ぶことで、自分を追い詰めた全てに一矢報いたかったのだ。
心が張り裂けそうだった。体中が痛くて、冷たくて、死んでしまいそうなほど辛いのに、まだ生きている。
しかし、あの青年は死んでしまうだろう。この山で殺され喰われた人々のように、無惨な最期を遂げる運命にある。
誰かを犠牲に生きながらえる人間にだけは、死んでもなりたくない。
千尋は雄叫びと共に体を起こした。泥に塗れた体はすでに限界を訴えているが、このままここで寝ているわけにはいかない。自分にはあの青年を助ける義務がある。たとえ死ぬとしてもその後だ。
千尋は地獄を彷徨う亡者のように、おぼつかない足取りで山を下りていく。
真っ先に思い浮かんだのは釜鳴老人の顔であった。
千尋には彼らに対抗する手段がない。とはいえ助けを借りるには、これまでの荒唐無稽にも思える話を信じてもらわなくてはならない。そうなると事情を知っている釜鳴に教えを乞うのが最適だろう。
千尋の足は自然と老人の家に向かっていた。
顎先を伝う雫すら拭うことを忘れて、千尋はひた走る。足がもつれて何度も転んだが、痛いだとか苦しいだとか、そんな感情はガラス一枚隔てたようにどこか遠いものであった。
バラック小屋に辿り着き、千尋は扉を力の限り叩くと声を張りあげて釜鳴の名を叫んだ。何度も何度も喉から血が出るまで叫んだが、老人が呼びかけに応える気配はない。
湧き上がる焦燥感に千尋は力任せに扉を殴りつけた。扉は大きな音を立てると、千尋を中へ誘うように開く。そこで初めて、千尋は扉に鍵がかかっていなかったことに気付いた。
「釜鳴さん」
真っ暗な部屋に千尋の声だけが響く。部屋の奥から漂う生臭い匂いに千尋は顔を顰めた。
「釜鳴さん。すみません。巽です。先ほどお伺いした……」
嫌な予感を胸に抱きながら、千尋は部屋の奥へと一歩、また一歩と歩いていく。
外から雷鳴が鳴り響き、開け放たれた扉から白い光が差し込む。千尋はそこで猟銃を口に咥えたまま、壁にもたれるようにして息絶えている老人の姿を目にした。
「あああっ、ああ……ッ!」
壁には釜鳴のものと思わしき血が飛沫のように飛び散っている。開かれた老人の目はもうどこも見ていない。
千尋は釜鳴のそばに力なくへたり込み、そして声を出して笑った。
「全部、全部全部全部……あいつらのせいだ」
千尋は釜鳴の咥えていた猟銃を手に取ると、老人を静かに横たえた。その拍子に老人の衿元から白い紙がはらはらと落ちていく。千尋はそれを手にすると、中を開いた。
やがて手紙を読み終えた千尋は老人を一瞥し、彼の胸元へ供えるように手紙を置いた。
猟銃を肩に背負い、床に転がっていた工具をベルトに捩じ込むように差し込んでいく。農具の中に置かれていた除草用の火炎放射器を手に取ると、千尋は壁に散っていた老人の血を手で拭った。
手のひらにべったりとついた血液を顔に塗りたくり、真っ赤に汚す。ほう、と息を吐くと、千尋はどこか満足そうな顔で老人の家を後にした。
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