抑圧と衝動

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抑圧と衝動

 私たちがしばらく長い階段を登っていった先にあったのは、どこかの会社の社宅だった。まさかこんなところに陰陽寮の人が? 私が戸惑った顔で桜子さんを見ていたら、桜子さんが言う。 「この会社は陰陽寮のペーパーカンパニーです。出向と衣更市の監視のために、ここに陰陽師が来ているんです」  意外だったと思っていたら、桜子さんはなんの迷いもなく社宅に入り、そこのひとつの家のピンポンを押した。  出てきたのは、スーツ姿のメガネの男性で、まだ剃っていない髭といい、うだつの上がらない雰囲気といい、とてもじゃないけれどこの人が桜子さんの上司とは思えなかった。 「なんだ麦秋……先祖返りを連れてここまで来るとは、いったいどういう了見だ?」  そう言って私を睨んできた。  ……途端に私の産毛という産毛が逆立った錯覚に陥った。これは私の記憶じゃない。みもざの記憶だ……みもざが何度も何度も潜り抜けてきた死線が、私に警戒心を呼び起こしたんだ。  この人、本当に見た目はうだつの上がらないサラリーマンなのに、いくらでも先祖返りを屠ってきた人なんだということを、視線だけで察してしまった。  桜子さんは「課長、やめてください」と止めると、「中に入れてはいただけませんか?」ときびきびと尋ねた。  課長さんは未だに私を警戒していたものの、やがて「入れ」と扉を開けてくれた。  私たちはそこにお邪魔した。  社宅は新婚用家庭向けなのか、おそろしいくらいに狭かった。畳一畳、居間、台所。プライベート空間なんて、トイレと風呂くらいしかない。いや、あるだけマシなのか。  毛羽だった畳の上に座布団を出し、私たちを招き入れた。 「それで、報告とは?」 「守人が守護神と逃走しました。衣更市の結界の修復が……このままではかないません」 「……っ!」  途端に課長さんはダンッと畳を叩いた。パサリと黄ばんだ畳の粉が舞う。 「なぜ止めなかった!?」 「無理です。ふたりは相思相愛だったゆえ、守人は守護神を失うことを拒みました」 「それでむざむざ逃がしたというのか!? この地の先祖返りたちが暴走したらどうなるかわかっているのか!? 今ですらギリギリの状態なんだ……先祖返りが、人間を襲いはじめたら、もう陰陽寮での隠蔽活動だけでは防ぎきれんぞ……!!」  課長さんの言葉に胸が痛んだ。  彼は、仲春くんのことも照日さんのことも知らない。だからこそ、衣更市に仕事や学業で越してきた生粋の人間のほうを優先するし、私たちずっと住んでいる人間は、この人の中では化け物とひとくくりなのだろう。  桜子さんは「課長」と短く言う。 「私は、今まで陰陽寮より先行し、守人たちと共に数多の先祖返りを屠ってきました。守人の体液を定期的にいただいていた彼女たちは、暴走しておりません。彼女たちをそのままむざむざ殺すよりも、衣更市防衛のために活用すべきなのでは?」  桜子さんの言葉に、私は言い出しっぺにも関わらず勝手に傷付いた。  彼女は私たちを庇ってくれているんだろうけれど、その言い方じゃ私たちは本当に化け物だ……ううん。今までは仲春くんがずっと体液をくれていたから、私たちは狂わなかっただけ。先祖返りの衝動で我を忘れて暴れなかっただけ……昨日今日は、仲春くんとキスをしていたから、まだ守人の体液が体内に残っているから大丈夫だろうけれど、もし体液が消えたら? もし衝動が抑え込めなくなったら? 私たちは、本当にただ狩られるだけの化け物と成り果てるんだろうか。  考えたくなくても、どうしても考え込んでしまう。  一方、桜子さんの話を黙って聞いていた課長さんは、苦々しい顔をしていた。 「……陰陽寮を説得するだけの材料はあるのか? 結界修復ができない中で、衣更市に住む先祖返りたちの正気を保てると?」 「まだその方法は見つかってはいません。ですが、守護神の力を借りてとはいえど、結界を張ったのは守人ほど力はなくても陰陽師のはずです。彼と同じくらいの力を得られれば、我々でも不可能ではないはずです」 「……血の濃さなど、一朝一夕で賄えるはずはないが。まあ、いい。一週間やる。一週間以内に陰陽寮を説得できるだけの成果を出せ。それ以上は、俺も上を誤魔化しきれないし、殲滅作戦を抑えることはできんぞ」  一週間。それはあまりにも短い気がする。  ゲームスタートの先祖返りたちの暴走から、ゲーム終盤の結界の綻びの判明までにかかった時間は、たしか公式ガイドブックによるとひと月だ。それを四分の一以下に短縮されて、それに失敗したら、殺される……。  私はブルブルと震えてしまっていたけれど、桜子さんはきっぱりと言い切った。 「それで結構です。ありがとうございます」  こう言って、話し合いは終わってしまった。 **** 「あっ、あの! 本当に今ので成功すると思っているんですか!? 結界の綻びを見つけるまでにも……充分時間がかかりましたのに……!」 「たしかに結界の綻びの特定までには充分時間がかかりましたが、今回はそもそも結界の綻びの場所は既に見つかっていますし、方法もわかっています。現状、守護神がいないので無理というだけで」 「じゃ、じゃあ……!」 「でも仲春さんは、私たちに屋敷を置いていってくれました。守人の屋敷です。今までは仲春さんに遠慮して、貸し出されたスペース以外は使えませんでしたが、今は遠慮無く捜査ができます。守人の持っている力の資料だって、調べればあるはずです」  桜子さんの言葉に、私は声を失ってしまった。  ……てっきり、彼女は理屈を付けて私たちを殲滅する方法を探っているんじゃとまで考えていたけれど。よくよく考えれば、桜子さんはそんなみもざみたいなうじうじと湿度高いことばかり考える人ではなかった。  私が小さく「ありがとうございます……」とお礼を言うと、桜子さんは肩を竦めた。 「あなた、私に頭を下げてきたときは、生きることを諦めてないんだって、少し感心しましたのに……私のこと、勝手に怖がる、勝手に苦手視するって、こちらだってどう扱えばいいのかわからなかったから、あなたのうじうじした態度が少しは治ったのかと思ってましたのに……変わらないものですね」 「そ、そんなこと……!」  ないとは言い切れなかった。  なんでもズバズバと切り込む桜子さんと、なんでもかんでも内罰的に考え込むみもざだと、相性が最悪過ぎて、ゲーム中でもまともに会話できなかった。いつも風花ちゃんやうらら先生が間に入ってくれなかったら会話にならなかったんだ。  でも……みもざは死んじゃったんだ。あの子は……自分の恋と一緒に死んじゃったんだから、私がみもざとして頑張るしかないんだ。  そう意を決して歩いていたとき。急に血のにおいが鼻を通っていった。 「……血のにおいい?」 「えっ? しませんけど」 「そんなことは」  言おうとして、気付いた。  ……そうだ。みもざは鬼の先祖返りだ。鬼は病気や怪我の具現化とも言われていて、その鬼は人の病気や怪我に敏感で、それよりも鼻がいいのは九尾の狐の先祖返りのうらら先生くらいだ……。  実際に桜子さんでは察知できないほどに、この大量の血の匂い……病院みたいな清潔な場所ではない。生ゴミ……路地裏のにおいも一緒にする。 「こっち! この血のにおい……」  そのにおいを嗅いでいたら、不思議と高揚感が湧いてきた。  ……待って、血のにおいよ? どう考えたって先祖返りが暴れて、誰かを襲っているのに、どうしてここで私は恐怖よりも先に躍動感を覚えているの?  私の覚えた違和感より先に、体は血を求めて走りはじめた。 ──殺せる、殺せる。殺しても怒られない。怖がられない。嫌われない敵がいる。怪我させても平気。相手が悪いから。骨を折っても平気。今は早朝。誰も見てないから。  私の中で、狂乱の濁流が流れ込んできて、私の意思を押し流そうとしてくる。  待って待って待って待って……先祖返りが暴走するって、こういうこと?  理性を、本能がすごい勢いをつけて流れ込んできて、私自身を打ち消そうとしてくる。おまけに、だんだん喉が渇いてきた。 ──噛んで、しゃぶって、屠って、血の一滴も残らず吸い尽くして。  やめて! 私、血なんて飲みたくない! いくら先祖返りだからって、おもちゃのようにひとを殺してしゃぶってしまったら……もう、人間なんて言い張れない。  私自身は鳥肌を立てて、必死で自分から溢れ出てくる本能を押し留めようとするけれど、それより先に本能が躍動する。  走っている足だって、階段を登るときは一段一段登っていたはずなのに、体全体がバネになったかのように軽やかで、平気で十段飛ばして落ちてしまう。  ……こんなの、もう人間なんて言えるの!?  自分自身にそう絶望しかけた……そのとき。 「臨兵闘者皆陣列在前……!!」  いきなり私の方角に、紙の人形が飛んできたと思ったら私に貼り付いて、思いっきり電撃を食らわせてきた。 「タタタタタタタッ!!」  痺れて動けなく中、私にどうにか追いついた桜子さんは、自分自身の指を無理矢理噛みちぎって、私の口の中に突っ込んでくる。 「ふごぉ!」 「死にたくないと言っておきながら、いきなり本能に飲まれて暴走するなんて、どういう了見ですか!? 私、なんのために上司に頭を下げたと思っているんですか! このお馬鹿!」  桜子さんの血が口の中に広がった途端、あれだけ私の体を使って暴れ散らかしていた本能がすっとなりを潜めて、もうなにも聞こえなくなった。 「……ごめんなさい。血のにおいがした途端に、我を忘れてしまいました」 「お馬鹿! 本当に大馬鹿! いいですか、あなたが先祖返りとはいえど、ひとを殺した時点で、もう私はあなた方を庇い立てすることはできなくなるんですよ!? 先祖返りを一度無効化したあとは、抑え込みます! 協力願えますか!?」  そう言って、ずっと持ってもらっていた私の刀……神通刀を差し出した。私はそれを抱き締めると、また少しだけ、活力と冷静さを取り戻した。 「……はい!」
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