4.みんな大好き夏休み

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 孝宏くんが運転する車の助手席に座る。およそ三カ月ぶりに彼の車に乗って、その空間が安心する匂いで充満していて、帰ってきたのだとほっと息を吐いた。別にあの部屋が落ち着かないとか、安心しないとかそういうわけではない。楓さんは何時だって優しいし、俺も毎日気を張らずに済んでいる。それでもやはり、俺が帰る場所はここなのだと思う。 「紫月、今日は何を食べたいですか?」  紫月が食べたいものを作りますよ、と言われて、ついいつもより大きな声で 「オムライス」と答えてしまった。彼はほんの少し声を出して笑ったあと、「任せてください。美味しいもの作りますから」と一層嬉しそうな声を出した。あまりにも反射的に答えてしまったものだから、顔に熱がたまってしまい、ぱたぱたと手で扇いだ。彼はそんな俺の様子を見て、また嬉しそうに笑っていた。 車に乗ること数十分。都内にある大きな家が目に入る。高級住宅街であるため周りの家も大きいものばかりだが、一層目立つそこがたった3人で生活をしている俺の帰る場所なのだ。 モニターが車のナンバーを識別し、それが登録されたものだと分かると自動的に門が開く。大きな車庫に車を止めた後、孝宏くんは一度ぐいっと背筋を伸ばした。出不精な彼のことだから、外に出たの事態久しぶりのことなのだろうと思う。運転してくれたことにありがとうと告げれば、彼は「紫月のためなら、これくらい進んでやりますよ」と笑った。顔認証に指紋認証、そしてキーカードを入れてようやくその扉は開く。孝宏くんも天満くんもいろいろと狙われやすい人らしい。さすがにそんな自殺行為をするような馬鹿はいないと思いたいが、セキュリティは万全にしておきたいのだと天満くんは言っていた。  孝宏くんが扉を開ける。そしてその体勢のまま、俺が入るまで待っている。まるで使用人のようなそれを彼らは喜んでするのだ。俺みたいな人間に。 「うん…へへ、孝宏くん。ただいま」  くるりと振り向いて、閉められたドアを背に立っている孝宏くんに笑いかける。彼はふわりと優しく微笑んで、「おかえりなさい、紫月」と言いながら抱きしめた。ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられて、随分久しぶりの心地よい圧に口からは情けないくらい笑い声が漏れる。  手を洗ってうがいをして、荷物を自室において、制服から部屋着に着替えて。そうしてからリビングに戻ると孝宏くんが冷蔵庫から何かを取り出しているところだった。彼は、俺が戻ってきたことに気づくと「紅茶とココア、どっちがいいですか」と尋ねてくる。孝宏くんが淹れてくれるものはすべておいしいけれど、今はココアの気分だったので素直にそう答えた。  ソファに座って、また帰ってきたことを実感する。キッチンの方から聞こえる音が何よりも好きなのだ。数分後、ゆらゆらと湯気が揺れるティーカップとケーキが乗ったお皿を持って孝宏くんが戻ってきた。白いお皿に乗ったそのトルテはきっと孝宏くんの手作りなのだろう。カップを受け取って、「熱いので気を付けてくださいね」という孝宏くんの忠告を聞き、ふーふーと何度か息を送って冷ます。 「…ん、おいしい」  どうやって淹れているのか分からない。何度かその様子を見たことがあるが、特に変わった様子もなかった。なのに、孝宏くんが淹れてくれたココアや紅茶、珈琲はすべて他とは違う味がするのだ。一番好きな味がする。孝宏くんは向かいに座って、随分優しい目をしながらこちらを見ている。トルテも一口食べて、おいしいと呟けば一層顔を綻ばせた。  外ではフードをかぶり、隠されていたその美しい髪が露わになっている。サングラスで隠していたその瞳も今はちゃんと見えていた。ようやく本当に孝宏くんに会えたような気がして、再度「ただいま」と言葉がこぼれる。それでも、彼は笑うことなく「えぇ、おかえりなさい」と嬉しそうな声で言ってくれるのだ。
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