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明らかに古くさく、黒いもやすら見えてきそうなアパートを前に、青年は怯んでいた。彼はこの建物のとある部屋に入らなくてはならないのだが、本当に自分の力だけで成し遂げられるのか、不安を感じている。特別な能力を持つわけでもなく、頭脳明晰というわけでもなし、何かを視ることもできない自分では、依頼主の望む働きができるとは思えなかったのだった。
この凡庸な青年のもとに「幽霊が出るとウワサの404番室を、十万払うから調査してほしい」という依頼が舞い込んできたのが、数時間前。受け取った瞬間から今の今まで、なぜ自分が選ばれたのかと、彼はずっと疑問に思っている。確かにSNS上で様々なジャンルに渡って依頼を募集してはいるが、それは所詮探偵やら何でも屋やらのまねごとであり、彼の収入も実績もほとんどゼロと言って良いほどだった。報酬として一万円が支払われるような依頼もないではないが、そんなものは年に一度もない。彼はそんな弱小の「自称探偵」であり、だからこそ今回の依頼には当然驚いた。
青年は、これを機に依頼数が跳ね上がることを期待していた。どれほどの恐怖や嫌悪を感じようが、確実にやり遂げる心づもりだ。彼はスマホを見つめる。画面にはいつも探偵業に付き合ってくれる友人とのチャットが連なっている。今回も助っ人として数人に声をかけていたが、返信はまだこない。
ひとつ息を吐いた青年は、両手で頬を叩き、それから覚悟を決めてアパートへと乗り込んだ。
青年は玄関の前に来ていた。震える指で、ゆっくりとインターホンを押しこむ。いかにも古いアパートといった呼び出し音が、扉の向こうに響く。依頼主から鍵をもらっており、当の404には誰も住んでいないと聞いていた彼には、そんな必要はなかったのだが。
「なんで鳴らさなくちゃいけないって思っちゃうんだろ」ひとりごとを呟き、思考をずらしながら、ドアノブを回す。
木の軋む嫌な音が反響し、深淵への口は開かれる。まだ昼間だというのに真っ暗なその中から、威圧感が溢れ出ているようだった。入ってはいけない、入ってしまえばもう二度と出られなくなる。そんなことを言われているような気分になりながら、息を細く吐き出す。
青年は右足を一歩前に出した。影すら住むことを許されないその空間に、場違いに白い彼のスニーカーが進入していく。じんわりと足に闇が染みこんでいくような感覚に、青年はぶるっと身震いをした。
「大丈夫」心なしか足が重くなったように感じた彼は、拳を握り直した。「大丈夫だよ、心の持ちようってやつだ」
青年は部屋を見渡す。確かに何も見えない、何もいない。人間も植物も動物も、生きているものは何ひとつ確認できない。しかし彼は気付いている、何か嫌な気配がすることに――。
暗すぎる部屋に光を求め、青年は照明のスイッチを探す。壁に触れ、それらしきものがないか探るが、彼の手が壁以外の何かに触れることはない。少しずつ息が浅くなっていく、脳に酸素が届かなくなっていく。
「だ、ダメだ」ふうっとひとつ息を吐き出し、それから両頬を叩いた。「ちゃんと、気を強く持たないと」
ふと、ポケットの重みに気がついた。そうだ、スマホがあるじゃないか。スマホのライトをつけよう。彼は取り出したスマホの画面をのぞきこみ、見慣れないマークを見つけた。アンテナのマークにバツ印がついている。スワイプしてメニューを確認すれば「圏外」の文字が目に入る。
「……いやいや、まじかよ。こんなん、いよいよじゃん」
言葉と共にほうっと吐いたため息から、少し前まで確かに彼の中にうっすらとでも残っていたはずのやる気や覚悟が、一緒に抜けていった。青年の腕にはびっしり鳥肌が立っている。
「ま、まずいまずい……」早く終わらせなきゃ、早く帰りたい。自分の声が震えていることには気づかないフリをした。「まだ明るいから、大丈夫。夜じゃなくて良かった」
と、青年はこの暗闇に説明がつかないことに考え至った。日光はカーテンが遮断しているし、それ以外に光を入れるものがないとは言え、昼間の部屋をここまで暗くすることはできるのだろうか?
「カーテンだ、カーテン。開けてみよう」震える脚を叩きながら、青年は自分を鼓舞するように声を発する。「部屋に光を入れたらきっと、調査もしやすくなる!」
警戒を怠らず、彼はゆっくりゆっくり歩を進める。右の腕を伸ばし、その指がカーテンの端に触れる。きゅっと掴み、それを横に引こうとした。瞬間。
ぱち、ぱちっ……ぴしっ……、みしみし。
ばん!
大きな音に驚いた青年は、その場に尻もちをついた。何もないはずの頭上から聞こえた木の折れるような音と、窓の方で何かに勢いよくぶつかったかのような音。もはや青年から漏れ出てくるのは空気のみで、声とすら言えない。それでも調査を続けようとするのは、彼のプライドがそうさせるのか、それとももはや引くことはできないと感じたからなのか。とにかく、彼はカーテンを少しだけずらして、音の正体を突き止めることにした。
手だ。そこには小さな子どもほどの手のひらとしか思えない影が映し出されている。青年は遮光カーテンの内側にあるレースを動かすことができなかったために、それをシルエットでしか確認できない。
青年は後ずさる。腰の抜けてしまったその状態ではうまく下がることはできないが、離れようと必死だった。それなのに、彼の目は窓に釘付けられたままだ。逃げなきゃ、彼の口はそう動くのに声は出ない。思っているのに、そうすることができない。
彼の視線の先、窓の外。右側から何かが、現われる。窓に張り付いた小さな手の持ち主なのだろうか、長い髪がぬうっと映し出される。青年が思わず手を離したことでカーテンは元の通り窓をふさいでいるため、その様子は真っ黒の影でしかうかがえない。それなのに彼にははっきりと、“それ”が笑っている気配が感じられた。自分を見つめて、にやりと気味悪く笑みを浮かべている。見えているはずもないのに、それだけはわかる。
ゾッと背筋が粟立つ感覚に、青年は息を止めた。これ以上“それ”を見ていてはいけない、目を合わせてはいけない。この家から出ることも、帰ることすらできなくなる。ここでやっと、青年は足を動かす方法と逃げなくてはならないという現実を思い出した。力の入らない全身を無理やり動かし、玄関を目指した。
がちゃ。鍵の閉まるような音が鳴る。
嫌な予感に汗が噴き出る。青年の目には、玄関の鍵が閉まっているようには映っていない。それなのに彼がいくらドアノブを回そうとも、ドアが開く様子は一切ない。
「っ……あ、あぁあぁぁっ」
青年は何かを呟こうとしたが、それが言葉になることはなかった。身体が言うことをきかない。喉がしまって何を言うこともできない。どうにも、呻くことしかできなくなってしまったようだった。
と、背後から何かが聞こえてくることに気付く。獣の警戒する声とも、重症を負った人間の呻吟とも違う。正常な人間の異常な呟き。
まずい、逃げないと。早くここから出て行かないと危険だ。青年の直感は叫んでいた。あと少しでもこの場に留まれば、自分は死ぬと。
意味がないことを知りながらも、青年は何度もドアノブを回した。何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、解錠を試みた。しかし何かが起こる様子はない。一秒が一時間にも感じられる空間だった。その場には“それ”の声と、青年の荒い息しかなかった。
ダメだ、青年は心の中で呟き、窓側の様子をうかがう。未だ声は聞こえ続けているものの、“それ”が近付いて来ている気配はない。その場でずっと青年を脅かしているだけだ。きっと彼で十分に遊んだ後、それから喰おうとしているのだろう。青年は身震いをした。
彼は胸に手のひらを当て、大きく息を吐く。大丈夫、大丈夫だと言い聞かせるようにいくつか深呼吸をする。きっとこのままもう少し経てば、僕に飽きるだろう。そうして僕を解放してくれるはずだ。それがただの希望的観測だと自覚していても、祈るように唱えることしか、もう彼にはできなくなっていた。
大丈夫、僕は死なない。殺されたりなんてしない。僕は生きて帰るんだ。そうだ、きっと連絡を入れておいた友人もそろそろ――。
ぴんぽーん。
少し前に聞いた――青年にとっては数時間も前に感じられるが――古くさいインターホンの音が、部屋の中に響く。青年は息をヒッと吸い込み、しかしそれ以上の音は出せなかった。無音だった。
……無音? 青年は気付いてしまう。自分の鼓動の音以外がなくなっていることに。そうだ、窓にいた怪物の気配も、そいつの唸り声も、影すらなくなっている。綺麗さっぱり“それ”は消えていた。「本当に……?」
ぴんぽーん。もう一度インターホンが鳴る。青年はハッとしてドアと向き合う。ちょうど友人がそろそろ来る頃だろうと考えていた青年は、ほっと胸を撫で下ろした。このタイミングでの訪問者は友人以外にありえないと考えたからだ。その安堵の中に残ったひとかけらの不安から目を逸らし、彼はドアスコープをのぞきこんだ。
黒だ、ただ黒が広がっている。これは本当に外の映像だろうか、青年は首を傾げる。友人が助けに来たのであれば、アパートの廊下に立つ者を見るはずなのだ。しかしそこには別のものが見える。例えば、ドアスコープの銀の丸とか、反射した自分の顔とか……いや、違う。
「これ、って……」
黒が閉じて、開く。ぐるっと回ってその瞳孔が青年を見据える。少し細められたのだろう、上下に肌の色が見えた。
「ひぃっ」青年は飛び退いて背中を打った。どうやら腰が抜けたのか、青年は立つことすらできなくなっている。真っ暗な闇の中、耳鳴りがしそうなくらいの静寂だけが残っている。それ以外は何もない、何もない。何も、ない。
カチッ、音が鳴ったかと思うと、頭上のライトが点灯した。すぐに消え、それからまたあたりを照らす。何のトリガーもなく、明滅を繰り返す。ザザッと何かを巻き込む音と共に、テレビが砂嵐を映し出す。真っ赤な明かりを灯しながら、中のターンテーブルを回すレンジ。耳障りなノイズ混じりの、人語とは思えない会話を垂れ流し始めたラジオ。ピピッ、サッ。コピー機が不可解なパターンを何度も繰り返し印刷し続ける。じりりりりりり、鳴り響く電話――。
青年は卒倒しそうになりながらも、力を振り絞り、立ち上がる。少し前に窓に現われた“それ”は消えている。逃げるなら今だ、今しかない。彼は肺から重い酸素をいくつかに分けて吐き出しながら、窓に向かって走り出した。
ここは二階なんだ、窓から飛び降りたってなんとかなる。無傷とまではいかずとも、どうにか帰ることはできるはずだ。窓の解錠を試みる、簡単に鍵は開いた。すうっと横に引いてみれば、容易に言うことをきく。と、青年は訝しむ。ここは404番だったはずだ、それなら四階なんじゃないのか。
砂嵐の中、人の声が混じる。「だいジョうぶだカラ、コッチにおイデ?」誰かの言葉を切り貼りしたような音声だった。
耳を貸すな、早く飛びだそう。彼は首を振って窓の方へ向き直り、そして見つけた。先ほど窓に張り付いていたものの正体だろうか、黒い影に紅の大きな口が横に開いた――。
ぼとりと落ちた彼のスマホ画面には、着信があった。助けを求めた友人からのメッセージだ。
「今日行くって言ってたアパートってほんとにある? お前が言ってた住所、更地なんだけど」
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