名無しの妻へ

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 ——初夏の風が墓石を撫でている。毎月、この墓石に必ず顔を出すその人物は、ひとりぼっちの空間で目を閉じる。  直義が女性の名前を列挙し出した時、聡明な妻は夫の企みに気がついた。  それを阻止するには、自分の名を当てられてはいけない。だから妻は言った。 「この名前が嫌いだ」と。  これで大丈夫だと妻は思った。夫にとって、この結婚は形式的なもの。うるさい親戚たちを黙らせるためだけのものだと、妻はとっくに分かっていた。  夫は、自分になんぞ興味もない。愛してもいない。だから、この嘘に騙されてくれるだろうと確信していた。……  この墓地の近くには公園がある。バットに球が当たる爽快な音がした。 「……ずるい人」  そう呟いた時、歯と歯の間から、先ほど食べた菜葉の残り香が漂ってきた。  供えた花に陽の光が被さり、より色鮮やかにさせる。  夫が天に召される直前に、自分の名を呼んでくれた。自分の好きなもので構成された、この名前を。  安寧直義は、最期の最期に気がついたのである。妻が嘘をついたことに。  愛のない機械である夫と、毒である妻との間に、あの瞬間だけは、確かに夫婦の血が通ったのである。 「私は、この名前も、あなたがくれた名字も捨てません。私も、愛しております。直義さん」  安寧陽菜野(ひなの)は、墓石に眠る夫に微笑みかけてから、ゆっくりと顔を空に向け、目を閉じた。
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