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名無しの妻へ
「私の名前には毒があります」
初めて聞いた彼女の声は、台詞の字面に似つかわしくない透明なものだった。
二十五の誕生日を迎えたばかりの、安寧直義のもとにやってきた見合い話。
直義にその気などさらさらなかったが、親族のうるささに耐えきれず、ガス抜きのつもりで受けたのだ。
変哲のない和室で、当たり障りない自己紹介を終えた直義に、女はそう言ったのである。
さっさとこの場を終わらせることしか頭になかった直義も、さすがに女を注視した。
桃色の着物に白い肌が映えている。桜が雪化粧をしたら、このような対照になるだろう。
女は、黒真珠の瞳を控えめに煌めかせ、続ける。
「ですから、私の名前はお伝えできないのです」
直義は困惑を表面に出す。
「名前に毒があるとは、どういうことです」
「そのままです。私の名前を知った人は死ぬのです。あ、診断書もあるんですよ。御覧になりますか?」
女は慣れた手つきで鞄を開け、一枚の紙をすっと卓に置く。
直義もよく知る大病院の判がおされている。『名称含毒病』と記載されていた。
「このような体質のせいで、男性とのお付き合いどころか、友達付き合いもままならず……痺れを切らした両親が、この場を設けた次第でして」
女はフフ、と自嘲する。診断書に書かれた生年は、直義と同じであった。しかし、この女のような諦観と、奥ゆかしい品を纏う同い年の女性を、直義は知らない。
直義が交流を持った女性の中で、この女との時間は最も空気が美味しかった。直義の茶が減っていれば継ぎ足しをするし、直義の切り傷に気がつけば、スッと絆創膏を差し出した。
何より背筋がピンとしていた。結婚というゴールに一秒でもはやく辿り着かんと、猛獣の如き形相で前のめりになる女性達とは異なったのである。
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