逆光の美

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 彼女を音楽室で見つけた。高校一年生の時だ。  両親が決めた私立の高校は、成績別でクラスが別けられている、実に合理的な進学校だった。    進学出来るものを進学させるために、そうではない生徒を初めから選り分けておく。  学校はそうして校内の秩序を保ちつつ、育てるべきものを始めから限定することによって、教員の労力を割くべきところに割かせる、というわけだ。    そんなレベル毎に隔絶された学校生活のなかで、部活動だけは違っていた。  同じ目的のためだけに集った多種多様な生徒たちの箱庭。  十五歳から十八歳までの、性別も成績も性格もばらばらの、ごくごく無害な羊たち。    私は幼少の頃よりピアノを習っていた。  習わされていた、と言ったほうがより正確かもしれないが、とにかく鍵盤に触れることはそれほど嫌いではなかったので、部活動は合唱部を選んだ。    部活動が行われる音楽室には、ピアノがある。  縦に長いアップライトピアノではない、グランドピアノだ。  あの流線形の艶やかな黒の楽器の中には、八十八の音が詰まっている。  その美しい音に、少しでも触れて、鳴らす事ができないだろうかと思って、選んだ合唱部だった。    入部初日、私はホームルームが終わるなり、音楽室へ直行した。  ああ、早くピアノに触れたい。  スライド式のドアを開け、室内灯を付けて、はやる気持ちのままにピアノに目を向けた私は、しかしそのまま足を止めた。  先客がいたのである。    真っ黒な長い髪に目の上で切り揃えた前髪の、色白の生徒だった。  小柄に見えるほどほっそりとしたその女生徒は、涼しげで切長な一重瞼の目で、じっと私を見つめていた。   「新入部員?」    蓋を閉めたままのピアノの椅子に座り、彼女は手にしていた文庫本を閉じる。  白っぽい表紙に大きな黒字のタイトルが目立つ、有名なロシア文学、ドストエフスキーの「罪と罰」。   「私も合唱部なの。鶴森梨香」    つるもりりか。  素気ない彼女の、細く長い爪が本の表紙をさらりと撫でる。  ピアノを弾かない人の手をした少女に、十五歳の私は、どういうわけか心の一部を奪われてしまった。    いま思えば、彼女への気持ちは恋ではなかった。  けれど、限りなく恋に近い何かだったことは、誰にも否定させはしない。    鶴森梨花は不思議な生徒だった。  彼女は三年生、高校では最年長の女生徒で、年齢は十九歳。    十五歳歳から十八歳の少年少女たちが集う箱の中に、十九歳の彼女がいる。  不思議に思いつつも訊ねられないでいたのは、歳上の彼女の機嫌を損ねたくはなかったから。    部活動という狭いクラスの中で、最年長者の不況を買うだなんてごめんだった。  もちろん、彼女に嫌われたくなかった、という個人的な感情も大きな割合を占めていた。   「原級留置よ。簡単に言うと留年ね。でも私は、モラトリアムだと思っている」 「モラトリアム、ですか?」 「知らない? 知らないなら知らないで、いい」    さらさらの黒髪を耳にかけて、彼女は今日もグランドピアノの椅子に座り、蓋に肘をついて小説を読む。  他の部員や担当教員がやってくるまでの、日課であるようだった。  私はそんな彼女の横顔を見つめながら、イヤホンで音楽を聴く。  ベートーヴェンが好きだった。  生真面目で、重々しく、時に傷ついた心に寄り添うような音色を編み出す大昔の作曲家を、私は敬意と憐れみをもって愛していた。    エリーゼのために。感傷的な音色を聞きながらふと思う。  出会ったあの日から「罪と罰」を読んでいる彼女は、やはり、ドストエフスキーを愛しているのだろうか、と。    ねえ、と話しかけると、彼女は「何をもって愛というのか」と遠回しに呟く。   「この作家の本を読み終わるまで、卒業なんかしてやらないと決めているの。どうして()なのかというとね、彼の書き上げた物語がひどく読みにくくて難解で、そのくせどうしようもない人ばっかり出てくるから。彼の頭の中を読み解く事が出来れば、卒業する決心もつくかと思ったの」   「決心が必要なのはどうして」   「だって、外は……大人の世界は、生きにくくて難解で、どうしようもないことばかり起きるじゃない」    ああ、彼女は、鶴森梨香は、そういった世界に対して反抗を示しているのか。  彼女が執着している小説の登場人物たちは、演劇のように冗長な言い回しのなかで、繰り返し同じようなことを訴えている。  彼らの台詞には苦悩と言い訳が詰まっているのだ。    彼女は受容すべきものへの嫌悪の中でもがいている、社会の蜘蛛の巣に囚われた蝶々のお姫様だった。    合唱部に入学してふた月が過ぎた頃、私は勇気をもって「ピアノが弾きたい」と告白した。  彼女は切長の目尻でちらりと私を見やり、薄い笑みを浮かべて唇に触れた。   「いつになったら言ってくれるのかと思っていた」    彼女は知っていたのだ。私が弾きたくてたまらずにこのふた月を過ごしていたということを。   「梨香は意地悪だ」 「そうね。()の影響かもしれないわね」    トンと人差し指の爪で小説の表紙を弾き、鶴森梨香はピアノの椅子をあけた。  私が弾くドビュッシーのアラベスクを聴きながら、彼女は開け放った窓の枠に寄りかかって、ドストエフスキーの小説を読む。   「下手でもないけど上手くもない。それなのに、情緒的で音が響いてくる。良い弾き手になれるのではないの」   「ピアニストか。昔は……子供のころは、夢見てたこともあったよ。でも現実的じゃない。私には」   「そうね。夢を見る事が許されないから、私はここに居る。気持ちは解らなくも無い」    彼女はさらりと言葉を流して、綺麗に形を削り整えた指先でページをめくる。  途切れた会話は前のページに閉じ込められて消えた。  私が苦い思いで飲み込んだあらゆるものを、この蝶々は思想を知ったからといって、飲み下すことが出来るのだろうか。    合唱コンクールへの参加が決まり、合唱部の練習時間は伸びていった。  歌っている時の鶴森梨花は透明だ。まるでガラスのよう。    平素彼女が己の内側に閉じ込めているさまざまなものが、歌声に乗って溢れ出す。  きっと美しい想いばかりでは無い。  けれど彼女は、汚れたものを汚れたまま外に放つようなことはしない。    苦しみも悲しみも怒りも、歌声の抑揚となって情感満ちた旋律に昇華する。  ああ、音楽は素晴らしい。彼女の声を通して、彼女が私の中へ流れ込んでくるのを感じる。  ステージの上で彼女だけが輝いていた。  高らかに響き渡るソプラノを穢せるものなど、いまこの世界にはひとつだって存在しないのだ。    コンクールが終わり、それぞれが戻るべき日常に戻っていく。  会場から高校へのバスへと乗り込もうとして、私は彼女の姿がないことに気がついた。    探しに行くと、男がひとり、彼女の前に立っていた。  上等なスーツを着て、きちんと髪を整えて、あれはまるでそう、見慣れた学校教員のような。    梨香は私に気づくなり、一礼してさっと背を向けた。  誰だと問うと、「大学の人」と彼女は答えた。   「音大の声楽科の、先生」 「……行かなきゃ、梨香」    彼女は行くべきだ。  彼女は外の世界では穢れてしまう。  彼女には彼女の棲むべき世界が相応わしい。  熱帯魚があたたかい水の中でしか生きていけないように、鶴森梨花は薄汚れた俗世の空気を吸っては生きられない。   「全部読み終わったら、行くかもしれない」    きれいな手を掴んで切々と訴えた私の言葉は、ドストエフスキーに負けてしまった。  現代にまで作品を残す文豪に、言葉で勝てるわけもないけれど、それでも私は勝ちたかった。  勝つべきだった。今日一日くらいは。    翌日の放課後、彼女は何事もなかったかのように音楽室で小説を読んでいた。  相変わらずのドストエフスキー、タイトルは「白痴」。   「当てつけでしょう」 「なんのことやら」 「幸福になれない善人の物語」 「ネタバレしないでくれる?」    さらりと黒髪を耳にかけ、彼女は「ピアノを弾いてよ」と呟いた。  視線はページを眺めたまま、やるせない微苦笑を唇に浮かべていた。    言われるがまま、私はピアノの前についた。  八十八の白と黒の鍵盤を見つめ、夕日の差し込み始めた音楽室で音を紡ぎ始める。  愛するベートーヴェンのピアノ協奏曲「悲壮」、第二楽章。    穏やかで優しい旋律だと、ピアノ教室の先生は言っていた。  私にはそうは聞こえなかった。    疲れて、打ちひしがれて、全てを諦めてしまった者の無力な静けさが。  それでも逃れられない苦悩の中でもがく苦しみが。  立ち上がり、顔を上げて歩み出し、力尽きて倒れていったどうしようもない生の無常と愚かさへの慈しみが。    この「悲壮」という、彼が自ら題をつけた数少ないピアノソナタの第二楽章には、詰まっている。    最後の一音の余韻が消えた時、私も彼女も泣いていた。  机に顔を伏せ、開いたままの小説を握り締めたまま、嗚咽をこぼしながら、彼女は呻く。   「わかったから。ちゃんと卒業するから。大学、行くから」  うん、と私は答えた。喉が詰まって言葉が出てこなかった。  制服の袖で乱暴に涙を拭いながら、ほかの部員や顧問の先生への言い訳を考えていた私に、彼女は告げる。   「でも、ひとりは嫌」    ガタンと椅子を鳴らして席を立ち、彼女は歩み寄った。  読みかけの小説が乾いた音を立てて落下する。  愛するドストエフスキー。   「音大で待ってるから、来なさいよ。ピアニスト、なりたかったのでしょう」    鶴森梨香は、その一言で私の心の残りの全てを奪い取っていった。  強烈に差し込む夕日を背に立つ彼女の背には、陽光の翅が生えている。  囚われの蝶々のお姫様は蜘蛛の巣を脱して、彼女の空へと舞って行った。    私は彼女を追いかけることにした。  一度は苦さを飲み込んで重くなった私が、彼女のように再び翅を乾かす事が出来るかは疑問だった。  なんの確信も自信もない。ただ、そうしたかったからそうしただけの、愚かで、直情的な選択だった。    それでももがくしかないと、「悲壮」を通じて()が言う。  高校三年の冬、マフラーの隙間から頬に突き刺さる冷気に震えながら、私は掲示板の前に立っている。    結果を見るのならば彼女と一緒が良いと思った。  さらさらとした黒髪をマフラーにしまい込んだ彼女は、私を見つけると大輪の花のように笑った。  かつて光の中へと歩んで行った先人たちがいる。  鶴森梨香が彼らの影を追ったように、私も彼女の影を追っている。  まばゆく目を刺す光の中で、彼らの、彼女の影は、どんなものよりも際立ってそこに存在し続けている。      逆光の美 終
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