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二月
A子ちゃんとの出会いは高等部一年の二月でした。
私は教室の窓を開けて、体育館から聞こえてくる『仰げば尊し』に耳を傾けておりました。
米粒ほどの大きさの生徒の中には、目にハンカチを当てている子もいて「本番でもないのに大袈裟な」と鼻で笑っていたのです。
ガラガラガラと教室の扉を勢いよく開けたA子ちゃんは、大層急いでいた様子でした。息を切らし、高く束ねた一つ結びのしっぽがゆらゆらと揺れていたのを覚えています。
「え、ここ二組じゃない?」
「ここは三組よ」
「あ、どうも。ところで、貴方はここで何をしてるの?」
「仰げば尊しを聴いていたの」
贈る言葉の台本を忘れて急いで取りに戻っただとか、そんなところでしょうが、彼女はそんな用事も忘れてすたすたと窓際へ歩いてまいります。
「涼しい」
二月にも関わらず、彼女の頬には汗がつーっと伝います。乾いた風が吹くと、心地よさそうに切長な両の目を細めました。
それを見て、何故だか無性にその火照った頬に触れたくなったのです。
徐に手を伸ばすと、彼女がさっとこちらへ向き直りました。物盗りの現場を見つかったかのような気まずさがずくっと広まり、私は慌てて伸ばしかけた手を引っ込めました。
「貴方、どうして練習に参加しないの? 具合が悪いなら、あたしが保健室へ連れてってあげる」
「どこも悪くなんかないわ。でも、何度も居眠りをしていたら、先生から退場を言い渡されてしまったの」
「ああ、貴方もしかして神崎郁美さんね?」
私の悪名は、田舎から越してきた転入生にまで知れ渡っているのかと掠れた笑いが零れました。
「だってつまらないんですもの。毎日散々スカートの丈が短いだの、お辞儀の角度が足りないだの、先輩より先に歩いただの。そんな方たちを笑って送り出すなんて、そんなのって嘘よ」
「嘘でも笑えるのが人間よ」
正直、私はその時までA子ちゃんのことを世間知らずの田舎者だとばかり思っておりましたから、彼女の口からこんな確信めいた言葉が出てきたのには驚きでした。
私は東京で生まれ育ち、小・中・高と一貫の女学校に通わされるような箱入り娘でございます。食べるものや着るものに困った例はありませんが、それでも窮屈な人生を強いられていると自負しておりました。
けれど、その時の彼女の射貫くような瞳を見て、私は随分とぬるま湯に浸かっていたのだと思い知ったのです。
「……私、今日は参加しようかしら」
「そうしたらいいわ」
「でも、先生は気に入らないかもしれないわ」
「なら、あたしが手を引いてあげる。それならどう?」
彼女は正義の主人公といった様子もなく、至極当然かのように手を差し出します。私はカラカラと窓を閉め、そっとその手を握りました。
ここまで走ってきたせいか、彼女の手の平はじっとりと湿っていました。汗ばんだその感触が不思議と不快ではなく、むしろ彼女の熱が私の心まで伸びてくるような、そんな感覚でございました。
誰もいない教室の間を、私たちは手を繋ぎ走りました。遠くに聞こえる仰げば尊しの歌声に乗せて、上履きのぱたぱたという足音が廊下に響いておりました。
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