そばにいるための一つの嘘

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【資料室にいる】    保険医に事情を説明し、小笠原をベッドまで届け終わるが早いか、湊斗は部室棟へと引き返していた。数分前にスマホに入っていた短すぎるメッセージが指定してきたのは、部室棟の最上階、隅にある場所だ。  文化部の部室棟だけあって、日もほとんど暮れかけたこの時間帯、廊下を歩く者はほとんどいない。棟の中に残っているのも、パズル研究部のように何かしらの大会前の学生たちだけだろう。  その数少ない部員たちも、存在を忘れられた資料室など、わざわざ訪ねはしない。 「入るぞ」  前置きひとつした後で、湊斗は色褪せた扉の中に身をもぐり込ませる。 「大丈夫か、律」 「おー……、悪いな、色々任せて」  俺ばっかり情けない、と力なく笑う律は、ぐったりと壁にもたれかかっていた。緊急抑制剤は即効性が強い分、倦怠感の副作用も強いと聞いたことがある。 「小笠原は?」 「親に連絡してたし、大丈夫だろ。ごめんなさいってずっと泣いて謝ってたよ」 「そっか。まあ、こればっかりは仕方ないよなあ」  花の匂いは頭にがつんとくるから苦手なんだよな。  そんなことを言って大きく息をついた律は、腕で額の汗を拭った。まだ体の熱が引いていないらしい。持ってきた救急キットを差し出して、湊斗は顎をしゃくる。 「腕出せ、律」 「ん?」 「噛んでたろ。血が出てる。消毒するぞ」 「あー……、気づかなかった。やっぱ、オメガのフェロモンは強烈だよな。歯がな、疼くんだよな。犬が、がふがぶ噛んでおもちゃで遊ぶ気持ちがよく分かる」 「タブレットでも噛んどけよ」    ポケットに入っていたフリスクを差し出せば、ざばざばとまるで違う食べ物みたいに律はタブレットを口に流し込んだ。渡しておいてなんだがそれはそういう食べ物じゃないだろ、と眉をひそめつつ、湊斗は黙々と律の傷の手当てをする。 「ありがとう。……な、湊斗」  律の声音が変わる。不思議と身が竦む、低く艶の滲んだ声だった。答えぬまま、湊斗は無言で立ち上がり、資料室の鍵を静かに閉めた。鍵から手を離した瞬間、背後から腹に腕がまわってくる。耳元に熱い息がかかり、腰には硬く猛ったものが押しつけられていた。 「収まらないんだ」 「分かってる」 「今まで、だいぶ慣らしたよな。もう、入るかな」  律の手が、明らかな意図を持って湊斗の腰を撫でた。普段の余裕を削ぎ落としたような声も吐息も、聞いているだけで肌が粟立ち、めまいがしそうになる。  うなじに、ゆっくりと歯が当てられた。ぶわりと全身に鳥肌が立つ。  律は、抱きたいのだろうか。  当然だ。オメガに煽られたアルファは、種付けのために発情するのだから。  この身がオメガであったなら、不本意に呼び起こされた熱に苦しむ律を受け入れ、慰めてやることができただろうか。アルファとオメガだけが感じられる香りを楽しみながら、ともに熱に溺れることができただろうか。  あるいは湊斗が真実アルファであったとしたら、律を苦しめるアルファの性衝動とやらを理解してやれたかもしれない。手近にいただけの幼なじみに欲を向けるしかない生態を、憐れみと苛立ち以外の感情でもって迎え入れてやれただろう。  けれどそのどちらも、湊斗には叶わない。  胸がじくじくと痛んだ。  番ってすらいないオメガのフェロモンに反応するアルファの体が羨ましい。湊斗が来ると信じて疑わず、短い文字列で呼びつける律の傲慢さが腹立たしい。律を昂らせるオメガが妬ましい。強く美しく完璧な律が、こんな萎びた場所に身を隠し、湊斗なんかを頼っている事実が嬉しくて、気分が良くて、なのに苦しくてたまらなかった。 「湊斗?」  返事もしない湊斗にしびれを切らしたのか、律は焦れたように湊斗の肩に手を掛ける。  名前ひとつ呼べば人を好きにできると思っている自惚れ屋の、断られることなんて考えてもいない純真さが、憎らしくて愛おしくて、頭が沸騰しそうだった。 「湊斗、なあ――、んっ」    振り向きざま、自分の同じ高さにある律の首を掴み、強引に口付ける。黙らせたいと、ただそう思っただけだった。支配者(アルファ)の声は、聞いていると無条件で従いたくなってくるから。  抜き合いこそしてきたけれど、唇を重ねたのは初めてだ。嫌悪感も抵抗感も覚えぬことに、驚くよりも先に、まあそうだよな、と納得する。  ずっとそばにいたのだから、近づけるだけ近づくことに、抵抗があるはずない。
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