そばにいるための一つの嘘

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『事故』からしばらく、小笠原は休みを取っていた。再度顔を見ることができたのは、二週間後、スピードキューブ大会の日のことだ。昼食を終えてトイレを済ませたところで、湊斗は胸に「見学」のプレートをぶら下げた小笠原と、大会会場の廊下でばったりと出くわした。 「小笠原。見学、来てたのか」 「興味があったので」 「ああ……気になるよな。俺も初めて来た」  予想していなかった場所で出くわしたせいで、間の抜けたことしか口から出なかった。ぽりぽりと頭をかいて、湊斗は「体はもういいのか」とぶっきらぼうに尋ねる。 「はい。しばらくオメガ専門のクリニックに入院して診てもらってたんですが、フェロモンも正常値に戻りました」 「入院? 大丈夫だったのか?」 「不規則な発情期でしたし、いつもより症状がひどかったので。でも、もう理由も分かりましたから、大丈夫です。湊斗先輩にも、五十嵐部長にも、部員のみんなにも迷惑をかけてしまって、本当になんて謝ればいいか……」    Tシャツにジーンズという飾り気のない格好をした小笠原は、やつれているように見えた。掛ける言葉に悩んだ挙句、湊斗は「大丈夫だから」と前と同じ言葉を繰り返す。 「それより、せっかく来たんだから、出てるやつらの応援でもついでにしていってくれ。三×三×三部門は終わってるけど、部長が出るのは次のタイムスロットだから」 「部長って言いますけど、湊斗先輩だって結局出るんでしょう? 参加者のタグつけてますし」 「律がごねたんだよ」  ちなみに、勝った側は負けた側にひとつ言うことを聞かせられるということになっている。受験勉強の傍ら、やったこともない複雑なキューブの練習をさせられる羽目になった湊斗は、溜まった鬱憤を律本人にぶつけてやる気満々であった。  湊斗の持つルービックキューブに視線を落として、小笠原は興味深そうに呟く。   「五×五×五のルービックキューブって、こんな形なんですね。これも、五十嵐部長と共用なんですか?」 「いや、俺のだよ。大会当日は、ひとりひとつ使うから」    話しながら、さりげなく湊斗は小笠原をベンチへと連れて行く。会ったときから小笠原の顔色が紙のように白いことが気にかかっていた。体調が悪いというよりは、まるで小笠原の方がこれから大会に出るかのごとく緊張しているように見える。  小笠原は、会場内よりも外のベンチに行きたがった。秋も終わりかけたこの季節、風通しの良い外のベンチは人気がない。ほとんど辺りに人がいない場所まで足を進めると、唐突に小笠原は口を開いた。 「……湊斗先輩。お聞きしたいことがあるんです」 「なんだ?」    向き合う小笠原の耳には、ピアスが揺れていた。自分もつけているから、いつか湊斗にもピアスを勧めてくれたのだろうか。  そんな風にぼんやりとしていたものだから、次に小笠原からぶつけられた質問に、湊斗は完全に面食らった。   「私のフェロモン、どんな香りがしましたか」 「どんな、って」  小笠原は覚悟を決めたように湊斗を見つめていた。湊斗にはフェロモンの香りは分からないけれど、オメガやアルファの放つフェロモンの香りは、受け取る個人によって感じ方が変わるはずだ。質問の意図が分からず、湊斗は困惑しながら首を傾げる。 「律は、花の香りって言ってたけど」 「なんでそこで五十嵐先輩が出てくるんですか?」  むっとしたように小笠原が眉を寄せる。何と答えるのが正解なのか分からず、湊斗はますます眉根を寄せた。 「小笠原は、律のことが気になるのかと思ってたけど、違うのか」 「だからなんでそうなるんですか……?」 「小笠原は、俺と似てるから。いつも同じ方を見てる気がしたけど、勘違いだったか」  小笠原はぎゅっと両手でTシャツの端を握っていた。いつもきつめの化粧をして涼しい顔をしているだけに、そういう仕草をすると、妙に幼く見える。   「勘違いでは、ないです。でも、湊斗先輩とは違う理由でしょうね」 「そうか?」 「律。律。律。湊斗先輩は、いつも五十嵐部長を見ていますから。まるで恋してるみたいです」 「まさか! 目が離せないだけだ。あいつが好き勝手やらかしたしわ寄せはいつもこっちに来るんだよ」  あまりに的外れなことを言われて、思わず失笑する。けれど、小笠原の顔は真剣だった。 「そうでしょうか? 恋って言葉、湊斗先輩は妙に嫌いですよね。恋だと何か、まずいんですか」 「恋なんてもの、あいつにすると考えるだけでぞっとする」 「どうして? いまどき性別を気にすることもないでしょう?」     追及の手を緩めない小笠原に閉口する。理由はいくつも浮かんでは消えていった。    律は良家の息子だから。――五十嵐家にはほかにきょうだいだっている。  律はアルファで、湊斗はベータの男だ。将来がない。――その『将来』にどれだけの価値がある?  同性の恋人なんて、周囲の目が痛いから。――関わりもしない他人の考えなんて、気にしてどうなるというのだろう。    距離が近すぎると言われたことはある。それは恋とは違うのかと聞かれたことも、一度や二度ではない。  どんな理由なら他者は納得するのだろう。言葉にできなくたって、嫌なものは嫌で、だめなものはだめなのだ。  だって、恋も愛も不確実なものだと、湊斗は痛いほど知っている。クリスマス前に付き合い出したカップルは桜が散るころには別れているし、愛を誓って子どもを産み育てた夫婦さえ、たかだか異性ひとり間に入っただけでたやすく瓦解する。いかに心を浮き立たせるものだろうと、律との距離が開くきっかけになり得るものすべてが、湊斗にとっては無意味なものだ。  適当に煙に巻こうかとも思ったけれど、まっすぐにこちらを見つめてくる小笠原の目はなぜか必死で、逃げられる気がしなかった。心の中で両手を上げて降伏する。 「嫌なんだ。そういういらないものを入れるの。近くにいれば一緒にバカやるし、離れるなら離れるで、たまに会ってはバカやって……あいつと俺は、一生そうやって続くんだろうなって思うんだ。それでいいし、それがいい」  何をあやふやなことを言ってるのかと自分でも突っ込みたくなったけれど、それは湊斗の本音だった。小笠原は湊斗の顔を呆然と見た後で、力なく首を振った。   「仰木先輩にとっての恋愛は、『いらないもの』でしかないんですね」 「別にそういうことは言ってないけど……、とにかく、俺のことはいいだろう。小笠原こそ、何か悩みがあったんじゃないのか。言いたいことがあるからこんなところに来たんだろう?」 「……朴念仁って言われません? もう、いいです。今の私が言えることは何もないって分かりましたから。あの超人が、牽制ばっかりしてくるくせに煮え切らない態度なのも、少しだけ理解できました。少しだけ、同情します、あの人に」 「……?」 「なんでもないです。引き留めてすみません。そろそろ行ったほうがいいですよね。大会、始まっちゃいますよ」    困ったような顔をして、小笠原は湊斗を促した。
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