そばにいるための一つの嘘

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 背を向けた小笠原の髪が、風に揺れる。遠くで咲く金木犀と同じ香りが、小笠原の髪からも漂ってきた。鼻をくすぐる甘い香りに、湊斗は深く考えることなく口を開く。 「この香水、いいにおいだな。秋っぽくて、小笠原によく似合う」  ぴたりと小笠原が足を止める。 「香水は、ベータだけのものかと思ってた」  フェロモンを纏うアルファとオメガに、人工的な香りは必要ない。むしろ、鼻の良い傾向にある分、強い香りを苦手にする者が多いくらいだ。   「反抗ってやつですよ」 「親への?」 「生まれつきの性別への」  自分のフェロモンの匂いは、と尋ねた小笠原も、定められた第二性を厭わしく思っているのだろうか。振り返った小笠原は、泣き出しそうな顔で湊斗を見た。 「五十嵐先輩は、ミントの香りがしましたよ」  その言葉に、湊斗は凍りついた。香水のことではない。律は香水を好まない。湊斗には感じ取れない香りの話を、彼女はしている。湊斗が知らない律の香りを、小笠原は知っているのだ。言葉を失う湊斗を見て、小笠原はくしゃりと顔を歪めて笑った。 「怖い顔。知らなかったんですね。でも、やっぱり。湊斗先輩」  あなたはアルファじゃないんですね。  風に乗って消えてしまいそうなほど小さな声で、小笠原は囁く。 「オメガの発情期が崩れるのはね、恋をしたときらしいです。みんなに迷惑かけて最低だって分かってますけど、もしかしたら、ってどこかで期待しちゃったのも、本当なんです。……でも、私のフェロモンなんて何の役にも立ちませんでしたね」 「どういう意味だ?」 「好きな人にも届かないならなおさら、こんな性別に生まれたくなかったなって、独り言です。……安心してください。先輩が嘘をついてるの、きっと何か理由があるんでしょう? 誰にも言いませんから。大会、頑張ってくださいね」  ひらひらと後ろ向きに手を振って、小笠原はほとんど駆け出すように去っていった。  ひとり残された湊斗は、手のひらでルービックキューブをもてあそぶ。恋だのなんだの、そんな話を最近もしたような気がした。誰としたのだったかと考えて、ラット直後の律の気色悪い態度が気になってそんな話になったのだったと思い出す。  誰も彼も、どうしたというのだろう。 「まあ、発情期は恋の季節って言うもんな……」  ぽつりと適当なことを言って、湊斗はルービックキューブをくるりと回す。アルファでもオメガでもない湊斗には、知りえない世界もあるのだろう。  スマホが震える。律から届いた【早く来い。始まるぞ】というメッセージを一瞥して、湊斗は会場に足を向けた。
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