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小笠原の呼吸が荒くなっていく。
「おい、大丈夫か? さっきから、体調が悪そうに見える」
「いや……! 嘘。なんで、そんな」
ぐらりと小笠原の体が傾いていく。咄嗟に支えようと手を差し出すが、怯えた様子で小笠原は身をすくめた。涙交じりの声で小さく悲鳴をあげて、取り乱したように小笠原は床にうずくまる。立つことはおろか、座ることすら満足にできないのか、小笠原の手足は力なく地面をかいていた。
「ごめんなさい。ごめん、なさい……! 湊斗先輩、アルファでしたよね? すみません、離れて……!」
小笠原が警告するより早く、部室の中央――律が座っていた方向から、がたりと崩れ落ちるような物音が聞こえてきた。口と鼻とを強く覆い、ぎらついた目をこちらに向ける律を見て、湊斗は何が起きているのかを即座に理解する。
入部届には、第二性を申告する欄がある。小笠原は――オメガだ。
周りに聞こえないように、湊斗は小声で小笠原に尋ねた。
「緊急抑制剤はあるか?」
「鞄、に。くす、り……、すぐ……ごめん、なさい」
「大丈夫だから。気にするな」
小笠原の返事を聞くや否や、突然の出来事に凍りつく周囲に、湊斗はてきぱきと指示を出し始める。
「篠崎。小笠原の鞄に注射剤がある。出して太ももに打ってやってくれ」
「は、はい」
近くのベータの女子学生には、小笠原への処置――オメガの突発的な発情期を一時的に抑制するための注射剤投与の指示を。
「キューブ班、部長押さえてろ! 絶対離すなよ」
「えっ、はい!」
「うううっ」
律の周囲の男子学生たちには、横面を叩くつもりで声を張る。自分の腕を噛んで必死で耐えている律が、これ以上の自傷をしないように。あるいは、万が一律が理性を失ったときのための、保険として。
続いて湊斗は、部室に律以外にアルファの学生がいないことを確認して、窓際の学生たちに声を掛けた。
「坂井、職員室行って顧問を呼んできてくれるか。窓際のやつらは窓開けて換気しろ」
「分かりました」
蜘蛛の子を散らすように動き出した部員たちを横目に、湊斗は律の鞄を片手で掴み上げると、部員たちに押さえつけられている律に駆け寄っていく。
「みな、と」
「薬打つぞ」
血走った目で見上げてくる律の横に膝をついた湊斗は、ペン型の緊急発情抑制剤を鞄から取り出す。腿に突き立てた薬がぱちんと音が立てて注ぎ込まれると同時に、律は大きく息をついた。
「すぐ戻るから、休んでろ」
ぐたりと弛緩した律の頭をぐしゃぐしゃとかき回し、湊斗は「暴れなくなったら押さえなくていいから、あと頼む」と近くの後輩に声を掛けながら立ち上がる。
緊急の抑制剤はあくまで一時的なものだ。アルファの発情期はとにかく、オメガの発情期は、一度始まれば一週間は収まらない。小笠原を隔離しない限り、律もフェロモンの影響を受け続ける。
「小笠原、大丈夫か」
声を掛ければ、篠原に支えられた小笠原が、苦しそうに顔を上げる。ただでさえ病人のような状態なのに、涙と汗で溶けたアイメイクのせいで、小笠原の顔は余計に痛々しさを増していた。
「すみません。……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「小笠原のせいじゃない。十代のうちはフェロモンが安定しないって、授業でも習っただろ。……立てるか? 立てなそうなら、保健室まで抱えていく」
その言葉に難色を示したのは、小笠原ではなく、傍らで小笠原を介抱していた篠原だった。探るように湊斗を見つめて、篠原は声をひそめて問いかける。
「……仰木先輩もアルファですよね? 大丈夫なんですか?」
「ヤバそうに見えるか?」
「いえ。いつも通りに見えます」
「薬が効きやすい体質なんでね」
嘘をつかずに誤解させることなんて簡単だ。まっすぐ目を見つめて、いらぬ情報を削ぎ落とした事実を口に出せばいい。疑いを向けたことに罪悪感を抱いた相手が、あとは勝手に納得してくれる。
「あ、そっか。アルファでも、毎日予防薬飲んでおけば大丈夫なんでしたっけ。すみません」
「いや。……小笠原の荷物、これか?」
「私、持ってきますよ。行きましょう。……小笠原さん、仰木先輩に運んでもらおう。いいよね?」
小笠原が頷くのを確認して、湊斗は小笠原を横向きに抱き上げる。篠原が開けてくれた扉をくぐった後で、湊斗は振り向き、残った部員たちに声をかけた。
「分かってるだろうけど、第二性のことは個人的なものだ。今あったこと、外には漏らすなよ。あとは顧問の指示に従ってくれ」
ぱらぱらと返ってくる返事に申し訳程度に頷いて、湊斗は早足で保健室へと向かった。
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