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合図
「ここが俺の家。どうぞ」
「うわっ……すご……マジで兄ちゃん家なの、ここ」
「うん」
奏は目を輝かせながらウロウロと部屋を覗いて回った。俺はその後をゆっくりとついていく。
「ホントに一人で住んでんの?」
俺に振り向いて疑念の目を寄越した。
「うん。一人だよ」
「へぇー……高給取りなんだね。兄ちゃん」
「まぁね。努力したから」
「窓デッケー……」
リビングのカーテンをまだ閉めていなかった。奏がスリッパをパタパタさせて駆け寄って、窓に近づいて街を見下ろした。ホントに眠らない街なんだぁ、と感心しながら俺に言った。
「……奏は、なんでこっち来たの。観光目的じゃないってボスが言ってた」
「あは。もう本題? 久々の再会なのに」
「気になって」
奏の隣に立って一緒に見慣れた街を見下ろす。確かに奏の言う通り眠らない街だな、と明明つくライトの粒に感心した。
「兄ちゃん」
「ん?」
「一緒に風呂入ろう」
「風呂? 一人で入っておいで。こっちはトイレと別々になって……んっ」
あの日と同じように、奏が背伸びして俺に口付けた。
「……」
「一緒に入ってくれたら、教える」
「奏」
「いいだろ。かわいい弟の頼みなんだから」
やっぱり少し大人びたか。俺が断らないことを知ってのセリフに、わかったよ。と答えた。
「兄ちゃん枕役ね」
「ん」
ザブ。と奏も湯船に浸かったらいつも通りの湯量がバスタブから溢れてしまった。
「はぁーっ。気持ちー」
俺達男同士が二人入っても優に足が伸ばせるほどの広さがある。奏はさっき言った通りに、後ろにいる俺を枕のようにして軽くなった体重をかけた。
「……で?」
「もー兄ちゃん急かすなぁ。もっと他に話すことあるだろー?」
「……ボスまで来たんだ。どうしたんだ」
「ふふ。ボスってホントに過保護だよね。俺一人でも行けるよって何回も言ったのに」
「……」
「兄ちゃん」
「ん」
「俺、婚約者に会いに来たんだ」
「えっ」
婚約者?
「んふ。びっくりしたろ」
ちゃぷ。と水面が揺らぐ。
「お、おめでとう……結婚するんだ。知らなかった」
俺は予想もしていなかった奏の言葉に心底動揺した。向かい合って顔を合わせていなくて良かったかもしれない。
「ふふ。結婚か……結婚、したかもしれない」
「え?」
したかもしれない?
俺は意味が理解できなくてまた動揺した。
「殺されたんだ」
「……殺された?」
「うん。日本でね。仕事中だった。俺の婚約者。それで、復讐しにわざわざ来たってわけ。婚約者を殺した奴に会うために」
「……」
淡々と話す奏のその言葉の一つ一つを、懸命に考えた。
「もう目星はついてんだ」
「あ……。か、奏」
「協力して欲しい」
「奏」
「兄ちゃん達が何者なのか俺はもう知ってるよ」
「……」
そうか。あれからもう五年も経った。奏が何も知らないなんてことの方が不思議か。
「頼まれてくれる? あっ、もちろん兄弟価格でね」
冗談っぽく奏が言った。
「……」
ちゃぽ。とまた水面が動いて奏が身を捩った。そして俺と唇を合わせ、俺のお願い。と言った。
「……。奏。お前が俺をどう思ってるかわからないけど、俺は暗殺とかするんじゃないんだよ。殺しは、特に」
「知ってるよ。ボスのチームはそんなんじゃない」
「……」
俺は、そこまで知っているのかと唖然とした。できれば奏にはなにも知って欲しくはなかったけど、ボスが隠しきれずに言ったのかもしれない。どちらにせよもう奏は知っている。俺は諦めのため息をついた。
「……それで?」
「俺一人じゃそこに潜入できないと思ってる。警備が厳重でね。あの茜って人……セキュリティに詳しいんだろ?」
「……茜まで巻き込むつもりか」
「やだなぁ。ちょっと知恵を貸して欲しいだけだよ。そんな怒んないで」
「……」
「一応計画はしてきてある。無謀でもないと思ってるし、ボスからの了承も、もちろん」
「ボスからも?」
それで直接奏から聞けって言ったのか。
「ふふ。ボスはどれだけ俺が復讐したいかわかってくれてるからね。後は兄ちゃんがイエスと答えるだけ」
「……」
くる、と体全体を俺に向けて、その妖艶な顔立ちを俺に晒した。
「……賛成できない」
「できない? うそ。断られると思ってなかった。どうしよう」
どこを見ても困っているようには見えないそのセリフに、俺はまた沈黙した。
「兄ちゃん、何人殺したことある?」
「……殺したことはない」
「ああ、言い方を間違えた。間接的に、何人殺したことある?」
「……」
奏は心を抉る天才かもしれないと感じた。
「ふふ。兄ちゃんにも罪悪感ってあるんだ。例えボスのためでもその感情って捨てきれないもの?」
「奏……変なふうに大人になっちゃったな」
「兄ちゃんがいつまでもイエスと言わないからだろ」
奏の色素の薄い瞳が至近距離で俺をじっと見つめた。
「……どんな人だったんだ? 婚約者」
「後で写真見せたげる。兄ちゃんほどではないけどかっこよかったんだ」
「……?」
「ああ、男だったんだよ。恋人。俺女と付き合ったことなくてさ」
「……そうなんだ」
「兄ちゃんのせいだね」
「俺のせいにするなよ……」
ポッ、ポト、と掛け湯をした俺の髪からぬるい水滴が垂れる。
「……ね、兄ちゃん」
奏は俺の耳の下に口付けて、しよ。と言った。
それは、俺達が交わる合図だった。五年越しの、奏のその言葉。俺にとっては呪いの他に例えることができなかった。奏の中ではどういう扱いなのかは、臆病な俺には知る術もなかった。
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