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「今は応接間へ通したに過ぎません。私を切った場合は現世へ帰れます。ですが神殺しの罪は重いです。紙切村の伝統芸能は軒並み廃れるでしょうし、縁結びの神社は縁切りの神社へと変貌を遂げますよ」
人間としての命を取るか。
「私を切らない場合は神域の奥へ案内します。そうなると、神隠しされた上に輪廻から外れます」
女としての恋心を取るか。
「紅子は誰と生きたいですか?」
まだ受け入れられないことが多い。とはいえ、置かれた状況に対する恐怖はあっても、再会した想い人への嫌悪はない。頭の片隅にいる冷静な自分が告げる。あとは何を失うかの問題だ。
あたしは、はさみを見ながら下唇を強く噛んだ。失礼なことをした。神長にも、先輩にも。
「答える前に聞かせて。どうして髪を伸ばしたの?」
不意に神長の右手から血が滴り落ちた。峰を握った上で切るなんて、どれだけの力なのだろう。
「紅子からもらったシュシュを使うためです」
血液が赤い。人間と同じだ。そう考えると同時に、目の前にいる男は人間ではなく、神なのだと信じている自分に気付いた。
「あたしは……」
ようやく確信を得て決意する。迷わず、神長の右手を包むように両手を伸ばした。
「殺さない」
拳が徐々に開かれていくのが伝わってくる。やがて足元から物音がして、神長に抱きしめられた。
「絵馬に書かれた願いを今こそかなえましょう」
耳元でささやかれた後、首筋にキスをされた。唇が冷たい。ぼんやりと考えた直後、頚動脈を食い破る勢いで歯を立てられた。
痛いと言葉にできるほど生易しいものではない。もはや悲鳴は声にならなかった。
意識が飛んで、咀嚼音によって我に返る。
「私はハクと申します」
ずっと名前が知りたかった。
希望に応えてくれた彼は何事もなかったように振る舞っているが、唇に鮮やかな紅が引かれている。
「文字通り『永遠の愛』を誓いましょう」
視界の端に山茶花が見える。目の覚めるようなピンク色がくすんでいる気がした。それだけではない。鼻を突く臭いが薄らいで、荒く吐いているであろう呼吸音が遠くに聞こえる。
五感が鈍くなる一方で、痛覚だけは消えてくれないようだ。全身を苛む苦痛に涙があふれる。
『君を題材にしました』
走馬灯のように頭の中を駆け巡る風景は紙切神社ばかりだ。親不孝な娘である。
自然と口角が上がった。く、と喉の奥で笑う。鼓動は確実に弱まっているはずなのに胸の高鳴りが治らない。血がたぎるような興奮を覚えたのは久しぶりだ。
「ぁ、り、がと……あたし……」
一条紅子は首を噛み切られるほど神に執着されていたのだ。
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