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2節 髪を切る
「いらっしゃいませ」
儚げな低い声が耳を打つ。あたしは弾かれたように作業室へ目を向けた。どうやら一人で切り盛りしているらしい。客が帰った後だったのか、店員はカット台の上を整理していた。その姿に息を呑む。
「いかがなさいましたか」
出入り口付近で立ち尽くす客を不審に思ったのだろう。店員がこちらに歩み寄ってきた。
腰まで伸びた白髪は、見覚えのあるシュシュで結われている。赤い目があたしを捉えて離さない。でも違う。違うのだ。その人は見上げるほどに身長が高く、肩幅も広い。また、直線的な体つきで角張っている。
「すみません。知り合いに似ていたので驚いてしまって……あ、あの!」
早口で取り繕い話題を変える。
「予約はしていないのですが、カットをお願いしてもよろしいでしょうか」
店員は瞬きを繰り返したが、すぐさま穏やかにほほ笑んだ。
「お任せください。では、こちらでお召し物をお預かりいたします」
コートを脱ぐように促されたので、ファスナーを開けて身軽になり、バッグと一緒に手渡した。店員はそれらを丁重に扱いつつ、受付台の方へ移動する。台の後ろに戸棚を置いているらしい。荷物はそこに納められた。
「当店へは初めてのご来店ですか」
「はい」
店員が受付台の収納から何かを取り出した。一枚の用紙と一本のボールペンだ。
「アンケートのご記入をお願いいたします」
さりげなく待合室へ案内しようとする。大きな背中を見つめながらついていくと、何やら甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「良い匂い」
「ああ、当店では山茶花を生けているんですよ」
店員の視線を追えば、テーブルに行き着いた。雑誌が積まれている。他にもカレンダーや置き時計などがある。端には花瓶が飾られていて、ピンクの花が待合室を彩っていた。
「私の好きな花で店名の由来になっています」
「そうなんですか」
一言二言の雑談を終えた後、店員はテーブルの上に用紙とボールペンを置いて下がった。
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