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「お待たせしました。まだ本題に入っていませんからね。簡単には帰しませんよ」
「本題?」
「髪を切りに来たのでしょう? はさみの扱いには慣れていますのでご安心を。さあ、お手をどうぞ」
椅子に座る女へ紳士が手を差し出す。
ここでまた、昔は考えが及ばなかった事柄に気付いた。この男は初対面であたしを題材にした紙切りを披露したのだ。意外とキザなのだろう。そして、その言動に戸惑いつつも差し出された手を取るあたしもまた、重症に違いない。
待合室から作業室へエスコートされて、スタイリングチェアに腰掛ける。差し出された白いケープに袖を通して、鏡越しに神長を見た。雰囲気が違う。神長は先ほどまでとは打って変わった真剣な表情をしていた。
背後に立っているのは昔なじみではない。一人の美容師だ。
その後、神長は必要最低限のことしか話さなくなった。シャンプーをする力加減から髪を扱う手つきまで、すべてが繊細だった。
長い沈黙と、神長に触られているという状況に耐えられず雑誌を広げたのだが、肝心の内容が頭に入ってこない。これでは本末転倒だ。
「さて、仕上がりはどうですか」
やっと訪れた終了の合図に胸をなで下ろす。あたしは、今の今まで集中していた体を装い、のろのろと誌面から視線を上げた。
鏡に理想の自分が映っている。頭が軽い。ひどく懐かしい感覚だ。
「ありがとう……って、あれ、料金……」
うっかり雑誌を落とす。
再会の衝撃で大切なことを忘れていた。手持ちで足りるだろうか。血の気が引くあたしとは対照的に、神長は朗らかに対価を求めた。
「お代は君の魂です」
神長の言葉を反芻する。
魂が欲しいと言ったのか、この男は。
「神長。あたしは真面目に聞いているの」
「はい。ですから真面目に答えていますよ」
鏡越しに合う目に底知れない不安を覚えた。とっさに席を立とうとするが、首にたくましい腕が巻きついてきて間に合わなかった。
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