令和五年

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学校から家までは徒歩十分程度。 自転車を使う距離でもないので、毎日ふたりは歩いて登下校している。 一年も半分以上が過ぎ、日によっては冬の足音がすぐそこまで近付いている気配がする。 ここのところ雨が続いていて寒かったが、今日は朝からいい天気で過ごしやすい気温。 まだ日は沈み切っておらず、空を茜色に染めている。 「翔ちゃん、寄り道して帰ろう」 いつも曲がる交差点を直進して歩道橋を超えると、水道局センターと大きく書かれた看板のあるだだっ広い場所がある。 水を再利用するための施設がある大きな建物は、明治時代に建てられた重要文化財だ。 施設以外にも公園や噴水広場もあり、たくさんの植物が植えられている。 春には満開の桜で訪れる人々を魅了してくれるこの場所も、今の季節はあまり人気はない。 「ここさ、小学校の時遠足で来たよね」 この近辺の小学校はほとんどが課外授業や遠足などで訪れる。 微笑んで頷く翔に、咲は楽しげに話を続ける。 「あの時、翔ちゃん急に具合悪くなっちゃって倒れたんだよ。覚えてる?」 翔は曖昧に肩を竦めて近くのベンチに座った。 ブナ科の木が多いのか歩道にはたくさんのどんぐりが落ちている。 咲はそれをひとつ拾い上げ、しげしげと見つめる。 「私その時にさ、ここの職員のおじさんに聞いた話が忘れらんないんだよね」 手の中のどんぐりを見つめたまま、咲は翔に向かって話を続けた。 「この場所には、元華族の一人娘とその忠犬の逸話があって。離れ離れになってしまった主人を探して、その犬は自分の家から二百六十キロも離れたこの場所まで歩いたんだって」 二百六十キロとは、今で言うなら東京から名古屋までの距離。そんな距離を主人を探してさ迷い歩いた犬の話。 「ここで……息絶えてたんだって。すごいよね、忠誠心っていうかさ。犬って賢いんだね」 忠犬といえば誰もが思い浮かぶであろうハチ公も、主人の帰りをずっと待ちわびて上野の駅に住みついた。 好奇の目に晒され、心無い人間に虐げられ、それでも主人の帰りを待ち続けたように、この土地にもそんな主人と忠犬の逸話があったことに小学生の咲は感動したのだった。 発見されたその犬の後ろの右足は疲労骨折を起こしていたとされており、そんな怪我をおして尚主人を追い続けた一匹の犬の思いに感銘を受けた水道局のある職員が、遠足や課外授業で訪れる小学生にその話を語って聞かせていた。 「ねぇ翔ちゃん」 なに?と咲の方を向き目で聞く翔に、咲はどんぐりのおすそわけをしながら問い掛けた。 「その犬とご主人様はさ、ちゃんと出会えて……幸せになったのかな」 徐々に日が傾きあたりがだんだんと暗くなってきた。 少し風が出てきたせいもあって肌寒く感じ、咲は小さく身震いする。 寒さのせいなのか他にも原因があるのか、翔の右足がズキズキと痛みを持ち出した。 翔は生まれつき有痛性分裂膝蓋骨と診断されていて、日常生活には支障はないがあまり激しい運動は出来ない。 ベンチに座ったまま膝を気にしていると、咲がそばにしゃがみその膝を手で撫でるように擦り温める 「冷えちゃった? ごめんね?」 一生懸命膝を擦ってくれる咲の手に自分の手を重ねると、その手は驚くほど冷たかった。 「わ。翔ちゃんの手、あったかいね」 見上げるように視線を合わせて微笑む咲を、翔は苦しいほどに愛しく思う。 「もう帰ろっか。お母さん遅いって怒ってるかな」 すくっと立ち上がる咲の後ろ姿に向かって語りかけた。 咲を指差し、親指と人差し指で作った輪を両手合わせる。軽く握ったこぶしを胸の前で下ろし、左手のひらの上に人差し指を立てた状態で乗せる。 そしてゆっくりと右手で顎を2回撫でた。 『あなたの、近くに、いる、だけで、幸せ』 fin.
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