大正二年

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大正二年

「ワンッ! ……クゥ、ン」 「ごめんね。一緒には行けないんだ」 少女は必死に足元に縋る愛犬に言い聞かせるように頭を撫でる。 「ワンッ! ワンッ!」 「ふふ、心配してくれるの?」 前足を必死に主人の膝に伸ばし、行くなとばかりに吠えるショウを可愛く思い、こんな時なのに咲の顔に笑みが浮かぶ。 「大丈夫よ、お前のことはお手伝いだったマツさんに頼んであるから」 「クゥ……ン」 「あの人ならきっとこれからもお前を可愛がってくれるよ」 まだ幼かった咲がショウを拾い屋敷に連れ帰った時に、飼えるように手助けをしてくれたのが長年四条家に仕えてきたマツだった。 飼うことに反対した咲の両親を、動物を育てることで心の育成に繋がると説得し、犬の育て方やしつけ方を教えてくれた。 その甲斐あってショウと名付けられた子犬はすくすく成長し、四条家の立派な番犬となった。 寒さの厳しい冬の日、四条家の当主である咲の両親が不幸な事故で亡くなった。 どんな親戚縁者よりも心を痛め、咲を心配しているのはマツだった。 母方の遠い親戚の家に引き取られることになった咲だが、犬嫌いの夫人の存在により、ショウは一切の家財道具とともに処分するようにと言われていた。 もともと駆け落ち同然で家を出た咲の母親は親戚とは疎遠であり、咲を快く引き取るのではない。 世間体から仕方なく成人まで面倒を見てやると承諾はしたものの、食い扶持がひとり増えるのもやっかいな上に、犬の世話だなんてまっぴら御免というのが彼らの言い分だった。 そんな咲を不憫に思い、ショウを引き取るとマツが名乗り出たのだった 「ショウ、これからもマツさんの言うことを聞いて」 「ワンッ! ワンワンッ!」 「……私だって、離れるのはさみしいよ」 柔らかい毛の感触に指を遊ばせながら、咲はショウの首元に抱き付いた。 「クゥ……」 「ずっと一緒だったのに……っ」 「ワン」 「……お前は、あったかいね」 熱くなる目頭を隠すように俯き、小さな手でショウの背中を撫で続けた。 「ごめんね、ショウ……」 「咲!!」 甲高い声に竦みながら咲が振り向くと、迎えに来た叔母が睨み付けていた。 「いつまでその汚い動物を触っているの! もう行きますよ」 「……ごめんなさい、叔母さん」 「ワンッ! ワンッ!!」 「こら、ショウ」 「グゥゥゥ……ッ」 叔母は威嚇するように吠えるショウに嫌悪を露わにしながら距離を取り、咲に言い捨てる。 「まあ、なんて粗野な動物! それから咲。これからは外出中以外は主人のことは旦那様、私のことは奥様を呼ぶように」 「……はい。奥様」 「今はまだ外よ。叔母さんで構わないわ」 「ワンッワン!!」 「行くわよ」 自分を使用人同然に扱う叔母のあとについていくため、咲は立ち上がり膝の土を払った。 「……クゥン、」 それについていきたそうにショウが伸ばした前足を取ると、咲はまるで人とする握手のようにぎゅっと握った。 「私は大丈夫だから。ずっと大好きよ、ショウ」 その言葉と強がった笑顔だけを残し、咲は叔父の運転する車の後部座席へと消えていった。 多量の排気ガスを撒き散らしながら遠ざかる車をショウは全力で追い掛けようともがくが、首輪の繋ぎがそれを許さない。 マツはそんなショウの様子を見ながら涙を浮かべ、咲の代わりにそっと頭を撫でてやった。 ―――――――半年後。 マツの家の庭からショウがいなくなった。 犬小屋にはたくさんのどんぐりと、長年かけて噛みちぎったであろう跡のある繋ぎだけが残されていた。 マツは必死に近隣一体を探したが、ついに見つかることはなかった。  
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