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大上さんは結構ウブだ。そして、確実に奥手だと思う。
だって、私たちが思いを確かめ合ったあの日からもう四日も経っているのに、いまだにキスもしてくれないんだから。
田谷社長や健一くんの前で私と付き合っている素振りすら見せないのは、照れ屋だからなのか一度結婚に失敗しているから慎重になっているのか。
ちょっと恨みがましい目で大上さんを見ていたら、「ん? どうした? ビーツが足りないか?」なんてトンチンカンなことを訊かれた。
野菜マルシェの試食は大成功で、今日は朝からビーツやチコリが飛ぶように売れている。
そして意外にも子ども連れのママたちに好評なのが、ディスプレイで置いたツリーサラダだった。
見た目が可愛いのに作るのは簡単だから、クリスマスパーティーにぴったりなのだろう。イタリアンレタスが予想外に売れて、健一くんに補充をお願いしたほど。
「芽衣ちゃん、どう? 黒キャベツ売れてる?」
心配そうに見にきたのは嶋田のおばちゃんだ。
嶋田のおばちゃんは今日のこの試食のために、試作段階から黒キャベツを格安で提供してくれていた。
「売れてる売れてる! 午後に追加が必要になるかも」
「良かったぁ! あのね、芽衣ちゃん。お父さんも一緒に来てるの」
ほら、あそこにと嶋田のおばちゃんが指さした先には、心配そうにこちらを見ている父の姿があった。
「連れてきてくれたの? おばちゃん、ありがとう」
「それでね、ちょっと話せる?」
嶋田のおばちゃんが大上さんの顔を窺ったら、大上さんはすぐに頷いて「健一が来たから、芽衣は休憩に入れ。ゆっくりしてきていいぞ」と言ってくれた。
「お父さん、来てくれてありがとう」
一緒に暮らしていると感謝の気持ちはあっても照れ臭くてなかなか言えないのに、なぜか今は素直に言葉が出てきた。
「芽衣、頑張ってるな。おまえが立派に働いている姿を母さんにも見せたかったよ」
父の潤んだ目を見たら、私まで泣きそうな気持ちになってくる。
「俺も家に閉じこもってないで頑張ろうと思ってな、嶋田さんにお願いしてバイトを始めることにしたんだ」
「え? どういうこと?」
父が前向きになってくれたのは嬉しいけど、意味がわからず嶋田のおばちゃんの顔を見た。
「【産直バス】の新しい集荷所がうちのすぐそばに出来るんでしょ?」
「うん。年明けから私が巡回する新しいルートだよ」
「それでね、うちの野菜を芽衣ちゃんのお父さんに集荷所まで運んでもらうことにしたの。車で運ぶには近すぎるから、台車を押してってもらう」
「そうすれば芽衣も仕事がてら俺の無事を確認できるし、俺も運動不足にならずに張り合いのある生活が送れるってもんだ」
二人の話を聞きながらウンウンと大きく頷いた。
お医者さんも認知症の進行予防には身体を動かすことがいいと言っていた。脳の活性化を促すだけでなく、気持ちをリフレッシュさせてくれるから、と。
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