山小屋のモモ

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山小屋のモモ 序  人はみな、それぞれの想いを抱えて山に登る。  山でしか味わえない、雄大な景色や、心地の良い疲労感、動物や人との出会いがある。  この山に登ってきた人たちが交わる中心に、山小屋暮らしをする柴犬モモがいる。  これは、物も言わずに登山者たちを温かく迎え入れるモモと、とある宿泊客たちの話。 午後二時  最初に到着したのは、若い二人組の女性登山者だ。 「思ったよりも早く着いてよかったね」 「今日は天気が良くて、景色も最高でした」  管理人から宿泊の案内を受け、旅装を解き、談話室にやってくる。薪ストーブの前に陣取るモモは、ピクリと耳を動かし、のそりと起き上がり、女性客に近づいていく。 「柴犬だ」 「お名前は?」 「モモです、大人しい子ですよ。撫でられるのが好きなので、もしよければ一緒に遊んでやって下さい」  女性管理人が二人組の登山客にモモを紹介する。 「モモちゃん、あなた、全然人見知りしないのね」  蛍光イエローの派手なライトダウンを着た女性が、モモの頭を優しく撫でる。 「犬怖くないの?」  赤いニット帽の女性が、相方に問う。 「ぜんぜん。子どもの頃、うちでも犬を飼ってたの。散歩もトイレの掃除もしてたよ」 「へえ」  二人はモモと共に薪ストーブの近くに座り、雑談を始めた。 午後二時三十分  談話室に突然、ドタドタという大きな足音とおばさんのにぎやかな声が響く。 「モモちゃーん!会いに来たよ!」  マッタリと過ごしていた女性登山者とモモは驚き、おばさんの方を向く。  ピンクのパーカーを着たおばさんは、「モモちゃんモモちゃんモモちゃんー!」とメロメロな声を上げ、その辺にトレッキングポールを置き、大きなバックパックを背負ったまま、モモたちのところへ突進してくる。 「お姉さんたち、ちょっとごめんなさいね」  おばさんは、先にモモと過ごしていた二人組の女性客がいてもお構いなしに、ウエストポーチからスマホを取り出し、無遠慮にバシャバシャとモモの写真を撮りだす。 「モモちゃーん、可愛いね、こっちに視線ちょうだい」  おばさんはカメラの前で手を振ったり指を鳴らしたりしてモモの気を引こうと必死だ。しかし、理想の画角にモモが入らなかったのだろう。最終的に、おばさんは無体にも、モモの顔に手をかけて無理やりカメラの方に向ける。モモは、こんな登山客にも慣れているのだろうか。まったく動じる様子もなくおばさんにされるがままになっている。  談話室の喧騒を聞きつけ、男性の管理人が様子を見に来た。 「すみません。お客様、受付はお済みですか」 「あ、ごめんなさい、まだです。モモちゃん、またあとでね」  おばさんはモモの頭からしっぽの付け根までを大きなストロークでひと撫でしてから、受付の方へ歩いてゆく。 「そうだ、モモちゃんのおやつとプレゼントを持ってきたんです」  おばさんが立ち止まり、その場でバックパックを開けようとする。 「ありがとうございます、ここでは受け取れないので、受付までお願いできますか」  落ち着いた男性管理人の案内と共に、ドタドタという足音は遠くなっていった。  おばさんの襲来の間、女性二人は微動だにできなかった。ほどなくして、薪ストーブの近くに、別の人がやってくる。 「いまのおばさん、すごかったですね」  スラリとした若い男性登山客だ。「ぼくもモモちゃんを触ってもいいですか」と問い、薪ストーブの前に三人と一匹で円座になる。 「ちょっとびっくりしちゃいましたね」 「まるで自分の家の犬にするような扱いでしたね」 「自分の家の犬だって、あんな大声で話しかけられたらビビっちゃうでしょう」  三人は、モモを中心に据え、会話をする。年齢が近いせいか、共通の趣味を楽しんでいるからか、初対面にもかかわらず自然と山トークが弾む。どこから来たのか、朝は何時に出発したのか、今年はどんな山に登ったのか、名物ヒュッテの山小屋飯がどうたった、夏の満開のお花畑を見れたとか、話は尽きない。女性二人はそれぞれスマホを取り出し、SNSにアップした登山記録の画像を素早くスクロールしながら話をし、青年もそれを覗き込んでリアクションをしている。 「お兄さんは、いつもお一人で登るんですか」 「そうですね、ほとんど単独登山です」 「お兄さん、SNSとかやってます?友達申請していいですか」  赤いニット帽の女性が、自分のスマホのQRコードを差し出す。 「ごめんなさい、アカウントはあるんですけど、今日スマホを水没させちゃって」 「え、水没?」 「日中、暑かったじゃないですか。お尻のポケットにスマホを入れていたら、自分の汗で水没しちゃったみたいなんです」  青年は肩をすくめて、ポケットからスマホを取り出す。彼のスマホは、側面のボタンを長押ししても真っ黒い画面のまま動かない。 「うわぁ、こんなことあるんですね」 「これからは、スマホは絶対にジップロックに入れようと、深く反省しました」 「修理代が高くつきそうですね」 「修理ができればいいけど、新しいのに交換だったらショックだなあ…。初めてライチョウに会った写真とか、山頂のブロッケン現象の写真とか、いろいろな写真が入ってるんだけど」 「バックアップはないんですか?」  黄色のライトダウンの女性が問うと、青年は力なくかぶりを振る。 「かわいいモモちゃんとの思い出も残せないよ…」  青年はモモの耳の後ろを搔きながら情けない声を出す。柴犬の耳は意外と肉厚で触り心地がいい。 「私たちが代わりに撮ってあげますよ。ID教えるので、下山したら友達申請してください。画像送りますね」  三人は、モモを囲んで、それぞれのSNSのIDを紙に書いて交換する。談話室には少しずつ今夜の宿泊客が集まってきていた。 午後三時五十五分  モモは談話室を離脱して、山小屋の玄関口で姿勢よく座って登山道を見据えている。  今日の最後の宿泊客が到着するのを待っているのだ。  辺りはまだ明るいが、午後四時までには山小屋にチェックインをするように、宿泊客には事前に申し伝えられている。  しばらくもしないうちに、恰幅のいい七十代ほどのおじいさんの姿が登山道に現れる。  モモは「ワンッワンッ」と吠えて、登山者にゴールはここだと伝える。  モモの鳴き声を聞いて、管理人の男性も玄関にやってきた。 「ようこそ、おつかれさまでした」  管理人の男性が、登山客のおじいさんを温かく出迎える。 「すみません、間に合いましたかな」 「大丈夫ですよ、すぐに夕飯の時間になります。モモも、もうすぐごはんだよ、ご・は・ん」  管理人がモモのしっぽの付け根を撫でる。くるりと巻いた柴犬の尾が小刻みに揺れる。 「モモちゃんも、山小屋での生活がだいぶ長いですよね、いま何歳ですか」 「十三歳です。以前にも来られたことがあるんですか?」 「五年ぐらい前に女房と一緒にね。女房はもう弱っちゃって、登山はできません。なので、今年は私一人です」  と言って、おじいさんはモモの前に座り、あごの下を掻いてやる。 「昔は犬も猫も飼ってたんですけどね、みんな先立ってしまいました。最後まで世話ができないから、新しいペットはもう飼わないようにしているんです」  おじいさんはモモの後頭部に顔を近づけ、スゥっと大きく息を吸った。「土と埃の交じったいい匂いだ、自然の中で駆け回る、優しいワンコの匂い」と小さな声で呟き、立ち上がる。 「今日は、モモちゃんのペットシーツの差し入れをもってきました」 「ありがとうございます、お荷物になって大変でしたでしょう。でも助かります。今日は差し入れ多くてうれしいね、モモ」  男性管理人は、「桃尻が可愛いから、モモって名前なんです。桃尻のモモ」と、おじいさんに説明をする。おじいさんも「たしかに、柴犬の桃尻は至高ですね」とモモの美尻に視線を向ける。動物の扱いに慣れているおじいさんと共に、モモも山小屋の中に戻っていった。  その様子を、ピンクのパーカーのおばさんが、ベランダからぼんやりと覗いていた。  おばさんはスマホの着信履歴を見て、通話ボタンを押す。 「あ、もしもし、部長?」  ベランダで通話するおばさんの張りのある声が、山のこずえに散らばってゆく。 「あんたが落ち込んでるから、私が代わりに一人で登ったわよ。モモちゃんの写真も送ったでしょう。山も、モモちゃんも、奥さんも、みんなここで待ってるから、早く元気になりなさい。来年は一緒に登るのよ」  短い通話を終えたおばさんの顔は、達成感に満ちたいい表情だった。 午後七時三十分  今夜の山小屋飯は、豚の生姜焼きであった。  食堂に集合した登山客の前には食事が一式セットされている。具だくさんの汁物には、順番にチャッカマンで火が入れられ、グツグツと煮えると美味しそうなにおいが食堂いっぱいに広がる。モモも、食堂で登山客と共に食事をとる。食事が終わりしばらくすると、談話室で山の講話が始まる。希望者が談話室に集まり、女性の管理人が登山のリスクマネジメントや、山の希少動物や高山植物などの自然環境について三十分ほど講話をする。山の事故の事例や救助ヘリを呼んだ際にかかる費用の話のあとに、夏の満天の星空や秋の紅葉、冬の雪原のスライドが映し出される。山への畏怖とあこがれを増長させた登山客は「他の季節にもこの山に登りたい」という気持ちになる。  講話が終わった後は、宴会である。飲みたい人は酒を持ち込み、談話室に残って酒盛りをするのだ。 「お姉さんたちは、若いのに、なんで山登りしてるの」  最後に山小屋に入った恰幅のいいおじいさんが、二人組の女性客に話しかける。 「職場がクソだからですよ」  赤いニット帽の女性が言葉悪く返答する。若い女性の乱暴な言葉遣いにも、おじいさんは気を悪くする様子はない。 「何のお仕事なさってるの」 「看護師」 「二人とも一緒に?」 「病院は違うけど、専門学校が同じなんです。あと二年で年季があけて自由の身です」  黄色のライトダウンの女性がコップのビールを眺めながら応える。談話室には、恰幅のいいおじいさんと二人組の女性のほかに、スマホを汗で水没させた青年もいた。 「年季明けって、どういうことですか」  青年が訪ねる。 「私たち、奨学生として看護学校を卒業したんです。奨学金を返済しない代わりに、系列病院で一定期間勤めなきゃいけないんです」 「それまで私たちは病院の奴隷も同然よ」 「二年たったら、看護師辞めちゃうんですか」  青年の問いに、女性二人は顔を見合わせる。 「うーん、どうだろう。とにかく今の病院は気に入らないからやめますね。その後は実家に戻って、地元で再就職かなぁ」 「私も少し休んだら、どこかの病院に再就職すると思います」  それまでに玉の輿に乗れたらいいんだけどね、と女性二人はふざけて笑いあう。 「お兄さんは、なんのお仕事をしてるんですか?」 「公務員です」  青年がぼそりと言う。 「僕、あまり頭が良くないから、公務員試験で結構苦労したんです」 「公務員試験の専門学校とかに通ったのかい?」  恰幅のいいおじいさんが、おつまみの乾物を食べながら問う。 「いいえ。大学で公務員試験対策の授業があったので、それを履修しました。選考は最終面接まで進んだのですが、点数が足りなかったみたいで、結果は補欠合格でした。仕方がないので、一度は民間の企業に就職しました。そうしたら夏ごろになって、繰り上げ採用の通知が来たんです。同期より半年遅かったけど、なんとか滑り込みで入庁できました。公務員になりたかったから、これで一生分のラッキーを使い果たしたと思いました。だから、仕事が辛くても、やめようなんて、考えたことなかったなぁ、と思って。嫌な仕事が回ってきても、数年我慢すれば異動できますし。全然世界が違いますね」  一同の顔に、薪ストーブの火が燃える影が揺れる。  沈黙を破るのは、黄色いライトダウンの看護師だ。 「みんな抱えている事情は違うのに、山が好きなのは、不思議ですね」  うんうんと大きくうなずきながら、恰幅のいい男性がそれに続く。 「山はいいぞ」 「大変なこともあるけど、またしばらくすると、次はどこの山に登ろうかな、ってなるんですよね」 「荷づくりが面倒くさいけど」 「荷づくりって、一日じゃ終わらないですよね。三日前ぐらいからコツコツ準備しないと、絶対忘れ物する」 「荷ほどきは、もっと大変。食器の洗浄やウエアの洗濯、登山靴の掃除も含めたら一週間かかる」 「僕も同じです。でも、いずれはテント泊にもチャレンジしてみたいと思ってます」 「テント泊は、私たちもやったことないです。これ以上、山グッズが増えたら、そろそろ部屋に置く場所が無くなりそう」 「山グッズをそろえるのにも結構お金がかかるから、やっぱり仕事は辞められないかなぁ」 「若い人は何でも挑戦できていいねえ」  彼らの談笑の真ん中には、当然のようにモモがいる。  部屋の柱時計がボーンと一つ鐘を打つ。時刻は午後八時三十分。この山小屋の消灯時間である。登山者たちはそれぞれの寝床に戻り、また明日の行程のために、英気を養う眠りにつくのだった。 翌朝  看護師の二人が出発する頃には、昨晩、共に語らった青年とおじいさんは、もう先に出発をしていた。玄関先で登山客を見送るモモに目をやると、その首には昨日は無かった、おしゃれなバンダナが巻かれていた。 「モモちゃーん!バンダナつけてくれたのねー!ありがとう、おばさんうれしいわ」  二人の後ろには、あの賑やかなピンクのパーカーのおばさんが身支度を完成させて立っていた。ドシドシと二人と一匹のそばにより、モモの背中を大きなストロークで撫でる。 「このバンダナね、昨日モモちゃんにプレゼントしたの。私が作ったのよ」  おばさんは、聞かれてないのに、どんどんしゃべる。 「え、すごい、ハンドメイドなんですか」  社交的な赤いニット帽の女性が、おばさんに返答する。 「そうよ、あなたたちSNSやってる?友達申請してもいいかしら。そこに私のハンドメイド作品と、山登りの記録を更新してるの」  三人はいそいそとスマホを取り出し、QRコードを見せ合う。看護師二人のスマホは、しかりとビニール袋に入っていた。 「私これでも若い時に、登山部だったのよ。登山部のOB会で、今でもみんなで山に登るんだけど、部長の奥さんが最近ガンで亡くなっちゃったの。気づいたときにはステージ四で、入院治療から死ぬまでアッと言う間だった。何の心の準備もできてなかったから、奥さんに先立たれた部長は、見ていられない程に落ち込んじゃって、可哀そうだったわ。それで、今年の夏山登山の計画もなくなっちゃったの。雨、風、台風で登山計画が中止になるなら仕方がないと納得できるけど、これは元登山部員として、部長を励ましてあげなきゃいけないと思って、今回は私一人で登ったってわけ。高いところに登れば、天国にいる奥さんにも近づけると思わない?山男を元気づけるには、山のパワーを与えるしかないのよ。あと、癒しのモフモフも、弱った心の活力になるわ」  おばさんは、バンダナを巻いたモモの写真をバシャバシャ取りながら、若い二人に一方的に話をする。  三人はモモを中心に据え、少し立ち話をしてから、それぞれの目指す目的地に出発していった。 終  山小屋の消灯時間は八時三十分である。登山者によっては、朝の三~四時のまだ暗い時間から出発したい人もいるので、談話室でお酒を飲むときにも大騒ぎをするのはマナー違反になる。登山客が寝静まったら、そこからが管理人たちに許される、つかの間の自由時間だ。  その日の山の景観やモモの様子などを、SNSで発信したら、一日の業務はだいたい終了となる。 21:07 @MOMOinTheHutte「今日はお客様から、モモのおやつとペットシーツの差し入れをいただきました。ありがとうございます。手作りのバンダナもいただき、モモもおしゃれ上級者になりました!」 21:09 @MOMOinTheHutte「山はだんだんと秋が深まり、紅葉もそろそろ終わりのシーズンに入ってきました。これから登山される方は、スパイクがあった方が安心です」 21:11 @MOMOinTheHutte「みな、いろんな想いを胸に秘めて山に登ってきます。泣いても叫んでも大丈夫。普段の生活から離れて、モモに会いに来てください。聞き上手のモモは、いつでもあなたが来てくれるのを、お待ちしています」
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