霊門

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霊門  小学生の遊びは、いつの時代もパワフルで挑戦的だ。  亮太も放課後になると、桜木小学校の校章のシールが貼られたヘルメットをかぶり、友人たちと連れ立って自転車で学区中を走り回って遊んだ。その中でもお気に入りの場所が、大きなアスレチックがある大池公園である。学校が午前中で終わる終業式の日も、昼飯を急いで食べて、亮太たち悪ガキ一同は垂木川河川敷を自転車で爆走しながら、大池公園へ向かっていた。  川の対岸に、日焼けと垢で肌が真っ黒くなった小太りの男がたたずんでいる。子どもたちが「オジン」と呼んでいるホームレスの男だ。爆走チャリンコ集団が対岸のオジンに近づくと、あろうことかオジンは立小便をしているところであった。 「オジンが立ちションしてるぞー!」 「きったねぇ!」 「オジーン!」  子どもたちの罵倒は容赦ない。寡黙なホームレスはいつも言われるがまま、嵐のように対岸を疾走する小学生に対抗する術を持たない。オジンは口をとがらせ、ぶっすりとした表情のまま、子どもたちを見送った。  亮太たちはやがて、大池公園のほうへと自転車を進める。途中の切通しでは、理科の時間に習った太古の貝殻の破片が無数に埋まった地層が斜めに走り、子どもたちの冒険心を掻き立てた。公園の手前にあるのが、人がなんとか屈まずに進める程度の小さなトンネルだ。六十メートルほどの長さで、明かりは無く、入り口側は戦後に施されたであろう円形の補強材が入っている。円形の補強材はトンネルの序盤で潰え、残りはいつの時代に掘ったのか分からない、掘削された当初のままの姿であろう岩盤がむき出しになっている。その途中に、人が一人うずくまって入れる小さな横穴がある。この横穴の使用目的は不明である。一般的には戦争中の防空壕だと言われているが、他にも、横穴に空き缶を切り出して作った簡易なランプが吊り下げてあることから、ここにオジンが住んでいるという噂話があった。  子どもたちのあそび場は、怪しいもので溢れていた。ここの家の裏山は古墳時代の豪族の墓だとか、絵付きの磁器片が拾える畑が川向こうにあるとか、空き地の手押しポンプは雨が降った翌日に漕ぐと今でも水が出るとか。この暗く小さなトンネルも、地元の小学生たちは度胸試しの場所として慣れ親しんでいた。亮太もこの岩盤がむき出しになった細いトンネルに、自転車に乗ったまま躊躇なく突入していく。じめじめとした未舗装の道も滑り転ぶことを恐れずに、スピードを落とすことなく自転車で走ることができた。しかし、友人の中には恐れをなして自転車を降り、徒歩で自転車を押して通る者もいる。今日も亮太たちは大声を出しながら思い思いにトンネルを通過して、目的地の大池公園に到着すると、ひとしきりアスレチックで遊び倒す。 「夏休み、みんな何するの?」  木陰で水筒の冷茶をのみながら、誰からともなく会話が始まる。ある者は両親の実家に帰るといい、またある者は農家だからどこにも行く予定はないという。 「僕は塾の夏期講習に行くよ」  亮太も予定を答えた。夏休み前に母親に問われ、自分の意思で塾に通って勉強を頑張ろうと考えたのである。 「そうか、じゃあ夏休みの間は、あんまりみんなで遊べないな」  誰かがそう結論付けて、亮太たちは少しの間しんみりとした雰囲気になった。  その翌日から、亮太の奇妙な夏休みが幕を開けたのである。  掛川駅前の学習塾の夏期講習は、二週間の予定だ。月曜日から金曜日まで詰め込みで、五教科をまんべんなくおさらいしてくれる。月曜の朝、初日の授業を受けるため亮太は塾のテキストと弁当と水筒を持ち、ヘルメットをかぶり自転車で早めに家を出た。これから友人と公園で遊べなくなるのか少し寂しくて、昨日みんなで遊んだ大池公園前の切通しとトンネルの道を、駅前の塾に行くには通る必要がないにも関わらずわざと通って塾に向かった。  初めての大きな学習塾は、亮太にとって刺激的なものであった。寒いほどにクーラーが効いた慣れない教室で、違う学校の子どもたちと一緒に受ける授業は新鮮だった。知っている人が一人もいない緊張した環境で、集中して勉強することができた。夕方、宿題や自習も塾で終えて、帰る頃になると、自分はこんなに勉強ができるのかと驚きさえ感じた。帰り道に自転車をのろのろとこいでいると、掛川駅北口の大樹のあたりで目がかすみ、白い影がぼうっと漂っているのが見えた。勉強のし過ぎで目が疲れたのであろうか。亮太は目をこすり、「これがテレビCMなどでサラリーマンが目頭を押さえている“目の疲れ”というやつか」と合点し、体に疲れが溜まる大人の仲間入りをしたように感じた。  夕食時、亮太は一日頑張った分を、両親に饒舌に話して聞かせた。友達はできなかったが、知らない学校の子と一緒に昼食を食べたこと、宿題まで塾で済ませてきたことを話し、そして目が疲れたから目薬がほしいとねだった。「じゃあ、がんばる亮太のために明日目薬買ってくるね」と母は笑って約束をしてくれた。  翌日の火曜日も、亮太は朝早くに目覚め、元気に夏期講習に向かった。その日も通る必要のないトンネルを、わざわざ遠回りをして自転車で通過していく。塾で一日中講義を受け、帰路につく。やはり夕方になると目がかすんだ。母は約束通り目薬を買ってきてくれた。それは並みの小学生が持っているプール用の可愛いイラストが描いてあるものではなく、デキる大人が使っていそうなカッコいいパッケージの目薬であり、亮太は大変に満足した。亮太は、来年には中学生になるんだからもっと勉強をがんばらなくてはと、やる気をみなぎらせた。目薬ひとつで子どもの勉強のモチベーションが上がるのなら、親としては安い買い物である。そんな調子で、水曜、木曜と、亮太はまじめに夏期講習に通った。    目のかすみだと思っていた白い影は、日ごとに数を増していく。一度、亮太の不注意で、足元にある白い影を踏みつぶしてしまったことがある。白い影に触ることはできなかったが、踏みつけた瞬間に背筋にひんやりとした冷気が走るのを感じた。また、特に駅前の大樹の周りに、白い影の数が一番多いことも分かってきた。そうなると、これは目の疲れではなくて、そこに白い影が“いる”のではないか、と、小学生の亮太にも薄々予想はついた。しかしそれは、望んで見たいものではない。亮太は白い影のことをなるべく考えないように日々を過ごした。  これはマズイ、とようやく認識したのは、金曜の夕方のことであった。  白い影がついに、人型を成して見えてしまったのである。最初に見えた人型は、戦国時代の武士の様な姿をしていた。しかし、すべての白い影が人型を成しているわけでもなかった。白い影のままぼんやり浮かんでいたり、地面にぺっちょりとへばりついているものもあれば、なんとなく人型に見えるもの、はっきりと武士の様相で歩き回っているものと、個体差があった。白い影に近づいたり、接触すると、ひんやりとした冷気が感じられることが分かった。ところが、白い影の正体がこの世にあらざるものと分かったところで、彼らがこちらに悪さをしてくることはない。見えるようになってしまった亮太は「困ったなぁ…」と小さく嘆息したが、家族にもそのことを相談する気にはなれなかった。  土日は夏季講習が休みになる。いつもと同じ時間に起きた亮太は、習慣でトンネルを通って駅前に向かい、市立図書館に本を借りに行った。図書館は近年新しく建て替わったばかりで、窓が多く明るい室内と木の温もりが心地よい、市民の憩いの場であった。亮太は涼しい図書館で静かに過ごすつもりであったが、図書館内は暇つぶしの市民だけではなく、予想以上にたくさんの白い影がいた。霊も夏は暑くて図書館に涼みに来るのだろうか。亮太は児童書のコーナーと自然史のコーナーで気に入りの本を借り、そそくさと退館した。  亮太は、掛川城の三の丸広場の向かいにある、公衆トイレが併設された休憩所で、水筒のお茶を飲み休憩をした。図書館では、たくさんいる白い影が怖くて、長居することができなかった。 「どうしよう、これ、元に戻るのかなぁ…」  亮太は汗でじっとりとした指先で、自分のまぶたを触る。一人ぼっちの亮太のつぶやきは、ミンミンゼミやアブラゼミなど、セミの混声合唱の中に消えてゆく。 「やい小僧、ずいぶん見えてるなあ」  誰もいない休憩所で、突然声をかけられた。亮太ははっとして、あたりを見回すが、誰もいない。左側、木陰の向こうにある車道の様子は、アスファルトが熱気で揺らぐばかりで、この暑さの中では観光客の一人も見当たらない。右側、休憩所の奥にある公衆トイレを見るが、そこも無人である。まさかと思い、垣根があるだけの背後を振り返ると、なんと垣根の間から男の白い顔がこちらを覗いているではないか。「お、声も聞こえるのか。すごいな」と男は独り言のように言い、垣根からずいっと体を出してくる。  幽霊だ。  幽霊の声が聞こえる。  この幽霊はにこやかな笑みを浮かべてコミカルな動きで、垣根を揺らすことなくヌルっと亮太の背後に登場してきた。その様子は、恐ろしいというより、少々ひょうきんに感じた。驚いた亮太は幽霊から目が離せない。ベンチに座ったまま身じろぎ一つできないでいる。垣根から出てきた男は百姓のような姿をしており、ぼさぼさに伸びた髪はなんとか一つにまとめられ、顔は皮ばかりで肉感が薄く、大きな丸い目が印象的だ。刻まれた皺のせいで年老いて見えるが、軽やかな身のこなしから推察すると、実年齢はもっと若いのかもしれない。百姓の幽霊は遠慮なく亮太の隣に腰掛けてくる。 「なんだ小僧、そんなに見えるのに、幽霊と話をするのは初めてか?」  突然の幽霊との遭遇に緊張しきった亮太は、何も発話することができず、コクコクと首を縦に振る。 「そうかそうか、俺も生身の人間と話をするのは久しぶりだ」  百姓の幽霊はそういうと、前歯が抜けた口を大きくニカっと開けて笑った。 「俺は伝吉。お前、名前は?」 「亮太です」 「亮太か、洒落た名前だな。年はいくつだ」 「十二です」 「うむ、元気があってよろしい」  伝吉と名乗る幽霊は楽しそうに「はははっ」と笑っている。ついうっかり、名前と年齢を教えてしまったが、大丈夫であろうか。 「それで、お前さん、いつから幽霊が見えるんだ」  伝吉はぎょろりとしたどんぐりまなこで、亮太を見つめてくる。 「…夏休みが始まってからです」 「ふうん…」  伝吉はあごに手を当てて、質問を重ねる。 「どうして突然見えるようになったんだ?」 「わかりません」 「ちなみに、どんなふうに見えている?」  亮太は少し考えてから、素直に伝吉に自分の身に起きたことを伝えることにした。家族にも言えない秘密を、知らない人、もとい、幽霊に話すのはドキドキしたが、一人で抱えておくのも小学生の亮太には荷が重たかったのだ。 「白い影が見えます。武士の影もあるし、人型であるのがかろうじて分かるもの、ただうすぼんやりとした白い影が漂っているのも見えます」 「そうか」  そこで伝吉はうつむき、話しを変えた。 「亮太は、幽霊に寿命があるのを知っているか」 「知らないです」 「幽霊の寿命は、だいたい死後四百年と言われている」  亮太は固唾をのんで伝吉の話に聞き入る。 「そして、俺の幽霊としての寿命も、そろそろ尽き果てようとしているらしい」 「じゃあ、伝吉さんは四百年前に死んだ幽霊なの?」  歴史の勉強は六年生になってから始まったばかりである。四百年前と言われても、それが何時代のことなのか、亮太には分からなかったが、長い時を隔てて伝吉と話ができることに高揚感を覚えた。 「正確に四百年じゃないと思うけどな。すなわち、今この世にいる幽霊の中で一番古くからいるのが、俺たちみたいな戦国時代の幽霊。そのほかは江戸時代とか、明治昭和の近代の幽霊なのさ。例えば、古代人の幽霊なんか見たことも聞いたこともないだろう?」  確かに、縄文人や弥生人の幽霊なんていうのは、テレビの心霊体験の特別番組でも見たことがない。 「すごい、じゃあ伝吉さんは戦国時代の人なんだ!」 「そうさ、徳川家康よりも年上なんだぜ!」  伝吉は、フフンと高らかに鼻を鳴らした。そして、その直後、肩を落として自嘲の笑みを見せた。 「ま、今川氏真が朝比奈康朝と共に掛川城で籠城戦をしてる頃に、一兵卒として死んじまったけどな」 「え、伝吉さんは…武士だったの?武士よりも農民に見えるけど…」 「本業は農民さ。弟と一緒に、今川軍の兵卒として報償金目当てで戦に参加したんだ。でも俺は、腰が引けちゃって戦では全然役に立てなかった。言葉通りの犬死さ。そのせいで、未練がましくこの世に残っちまったのさ。ちょうど俺が死んだのが、この辺りなんだよな」  亮太はギョッとして自分が座っているベンチの足元を見た。 「この辺りは人が多く死んでるから、幽霊も多い。おかげでいろんな幽霊と話をすることができて、なかなか楽しかったよ」 「幽霊同士でも話をするの?」 「そうさ。特に掛川城は観光地になってて、今でも人間が多くいるだろう。人間が集まるところに、幽霊も集まる。学校や病院には、いつでも多くの人間がいるだろう、そういうところには幽霊も集まりやすいんだ。そして、俺はここにいるだけで、いろんな時代のいろんな幽霊と話ができるってわけだ」 「さっき図書館にもいっぱいいたけど…」 「そうだな、図書館とか、第一小学校とか、報徳社には、俺もよく行った」  亮太は自分が通う桜木小学校にも幽霊がいるのかと想像すると、背筋が寒くなった。 「幽霊は、寿命が尽きる前に、霊力が強くなるんだ」  伝吉は、自分の手のひらを見つめてから、ちらりと亮太の方に顔を向ける。 「亮太、俺がお前に声をかけたのはな…。お前の目が心配だったからだよ」  次の瞬間、ぴたり、と、伝吉のつめたい手のひらが亮太の頬に触れた。冷たさの中に、確かな触感がそこにはあった。一拍遅れて「ギャッ!!」と亮太は声を上げ、大きくのけぞった。 「なっ、なにするんだよ」 「まさか、幽霊の俺が、亮太に触れられるとは。亮太のその霊感、尋常じゃない強さだぞ。どこの霊門を通ってきたんだ」  伝吉は真剣な眼差しで亮太のことを見つめて言う。亮太は伝吉から目を離すことができない。 「いいか、普通なら、幽霊は生身の人間に触ることができない」  伝吉は、次に亮太の手首に触れる。またひんやりとした触感がして、亮太はベンチから立ち上がり、後ろに下がった。 「やめろ!触るな!」 「お前も、幽霊がたくさん見えるのは嫌じゃないのか」  返事ができないままの亮太に、伝吉はさらにたたみかける。 「いつまでも見えるままでいいのか?亮太、俺はなぁ、親切で言ってやってるんだ。ここ数日、お前が目で幽霊を追っているのを何度も見かけた。普通、霊感がもともとある人間はな、そんなに幽霊を凝視しないんだ。幽霊が見えてても、まるで見えていません、っていう涼しい顔をして、俺たちを無視してくれる。しかし、お前の視線は、霊視の素人そのものだ。幽霊を見慣れていない様子がよくわかるし、なにより心配なのは、毎日その霊感がどんどん上がっていることだ」  そこまで伝吉に見透かされているとは思わず、亮太はごくりと唾をのんだ。 「僕だって、好きで見えるようになったわけじゃない」 「そこで、俺は仮説を立てた。おそらく亮太は、人間界と霊界を繋ぐ霊門を一方通行で通っているんだ」 「人間界と霊界をつなぐ門?」 「そうだ。霊門は、人の営むところのすぐ近く、人間界の至る所にある。そこら中にあるから、人間たちは霊門をくぐっても、同じ霊門を帰り道にくぐって元の世界に戻るか、他の霊門から元の世界に帰るもんだ。おそらく亮太はこの夏、人間界から霊界にばかり霊門を渡っているから、短期間で霊感が上がってしまったんじゃないかと、俺は推察している」 「霊門なんて聞いたことない。どこにあるか分からないよ」  塾に通う道の途中、門は一度も通らない。 「例えば、この辺で一番大きな霊門は、掛川城の大手門だ。あれは復元だが、立派な霊門として役割を果たしている。それから、円満寺の蕗の門、大日本報徳社の報徳門。少し離れると永江院の寺門や、油山寺の山門なんかも、霊門として有名だ」  知識をひけらかす伝吉は得意気に話すが、亮太には難しい内容であった。 「知らない門ばかりだ…」  まったく心当たりがない亮太は、このまま霊の世界に近づきすぎたらどうなるんだろうという不安で押しつぶされそうになる。急にはっきりと目の前に現れた恐怖と、どうすることもできないもどかしさと悔しさが、亮太の心の中で大きな渦を作り、今にも泣きだしたい気持ちになる。思わずズズっと鼻をすすると、伝吉は両手を振って、「まあまあ」と亮太をなだめにかかる。 「とりあえず、一番近くてわかりやすい、大手門にでも行ってみたらどうだ」  伝吉は立ち上がり、休憩所の川向こうを指す。大手門なら、亮太も知っている場所だ。昨年、家族で掛川の大祭りを見物したときに、ぶらぶらと散歩したのを思い出した。 「伝吉さんも一緒に来てよ」 「すまんな、亮太。多分、オレはあっちの方までいけないと思う」  伝吉はしゅんと眉尻を下げた。 「とにかく通ってみろ、それだけ霊感があるんだから、人間界に戻る手ごたえがあるかもしれない」  伝吉は亮太の頭をやさしくポンポンと撫でた。その冷たさに亮太は身をすくめたが、先ほどのように怯えて後ずさることはなかった。伝吉も、亮太に怖がられないよう、恐る恐る慰めてくれたのであろう。  亮太は伝吉と別れ、自転車で逆川を渡り、大手門へ向かう。掛川城大手門は、記憶の通り確かに大きく立派な門であった。老舗駄菓子屋の近くに自転車を停め、ヘルメットをかぶったまま大手門に近づくが、どちら側から通れば人間界に戻れるのか、皆目見当がつかない。とりあえずそのまま一度門をくぐると、スウっと背筋に風が通るような感覚がした。明らかに真夏の昼間の生ぬるい風とは異なる風であり、亮太は身がすくむ思いがした。  しかし、今通った方向で霊界から帰ってこれているのか、確信がない。もし反対側に通り抜けていて、霊感がさらに上がってしまっていたらどうしようと思うと、心配になってくる。  一度リセットしようと、逆側から駄菓子屋の方に門を通る。今度は背筋に走る冷気は感じられなかった。駄菓子屋には、おじいさんと低学年の女の子が、二人並んでカップのアイスクリームを食べながら、こちらを見ている。亮太は一人で門を行ったり来たりしている所を誰かに見られていたのが恥ずかしくなり、とりあえず今日はもう家に帰ろうと自転車に戻った。  そこではっと気が付く。自分にはあるじゃないか、行きに通って、帰りに通らない道が。あの原始的で、暗くて細いトンネル。そうだ、あのトンネルに違いない。そう気づいた 亮太は自転車を立ちこぎして、一目散に家路に向かった。  いつもと違うのは、大池公園に向かって走ることである。  小さなトンネルは、いつもと違った様相に見えた。行きに通るトンネルの山側の入り口は、近代的な補強がされており、円形に整った形をしている。しかし、公園側の出口の方は、掘りっぱなしで岩盤がむき出しになったいびつな形をしており、こちらの方が狭くて恐ろしい感じがした。  このトンネルが霊門にちがいないと確信を得た亮太は、少しの逡巡ののち、自転車をこぎ出して岩盤がむき出しのトンネルに突入する。前輪との摩擦の力で光る自転車のライトが、ウーンウーンとものすごい音を鳴らして小さな光を放つ。トンネル内はじっとりと湿っており、濡れた壁や地面が自転車のライトに照らされてチラチラと光が反射する。亮太はあっという間にトンネルを通り抜けた。  トンネルを振り返るが、大手門の時のような冷気も感じない。でもこれでいいのだと、亮太は本能的に思った。  大急ぎで自転車で坂を下り、山裾を走り、また岩盤がむき出しのトンネルの前に来る。そして今度は景気づけに「わーーーーーっ!」と声を上げながら元気にトンネルを通り抜けた。二回目の通過の際も、特に何も起こらなかった。大丈夫、これでいいのだ。そしてまた坂を下り、トンネルに戻る。夏期講習は月曜日から行われ、今日は土曜日だ。「げつ、か、すい、もく、きん、ど」と口で言いながら指を折って日数を数える。六日分。六回トンネルを通り抜ければ霊門を通った数と戻った数が同じになり、霊感もなくなるだろうと算段が付くと、俄然やる気になってきた。  三回目のトンネルに突入する。また大きく息を吸って、「わーーーーーっ!」と大騒ぎをしながら自転車で疾走する。中ごろまで行ったところで、 「やいっ!」  と、太く大きな男の声で呼び止められた。  亮太は驚き、思わず自転車を止めて後ろをふりかえってしまう。  トンネルの中に静寂が走る。  自転車の電気はタイヤの回転とともに発光する仕組みなので、自転車を止めると灯りがなくなり、トンネルの中は真っ暗闇となる。 「やい小僧、騒ぐなや」  男の声は大きく低く、響きの悪いトンネルの中でもよく聞こえた。  このトンネルにはオジンが住みついているという噂がある。この声は、オジンの声なのだろうか。いや、垂木川の河川敷をうろつくオジンは、小学生の罵倒にも言い返すことができないウスノロだ。おそらく、オジンとは違う誰か、いや、人ならざる者かもしれない。  どのくらいの時間、トンネル内部で立ち止まっていたのか分からない。亮太は恐ろしさのあまり返事もできず、飛び降りた自転車を押しながら全速力で走り、脱兎のごとく出口に向かって逃げていった。  日曜日は夏季講習が休みのため、トンネルや掛川城には近寄らなかった。  週明けの月曜、夏期講習が終わった夕方、亮太は伝吉に会いたくて、三の丸広場の向かいの休憩所に向かった。 「亮太、おまえ、霊門を通ったな」  そこには変わらず、伝吉がいた。一目見ただけで、亮太の霊感が弱くなったことが分かるのだろうか。亮太はこの恩人にまた会えたことが大変うれしかった。 「伝吉さん、ありがとう。おかげで霊門の引き返し方がわかったよ」  亮太はニコリと笑って礼を言った。そしてすぐ、伝吉に聞きたくてたまらなかった疑問をぶつけた。 「ねえ伝吉さん。霊門には誰かが住んでいるの?」  亮太は伝吉に、トンネルが霊門であったこと、そして三回目に通ったときに恐ろしい男の声で呼び止められたことを伝吉に矢継ぎ早に話して聞かせた。伝吉はきょとんとした顔をしたが、すぐに「あぁ、なるほどな」と合点し、教えてくれた。 「それはきっと、霊門の門番様だ。大きな霊門には、門番様がいるんだよ。きっと、亮太が通っていた霊門は、強力な門だったんだろうな。だから短期間で、霊感も高まっちまったんだろう」  実は、伝吉は幽霊の中でも特におしゃべりで情報通な幽霊であった。様々な時代の幽霊とコンタクトを取っていたからこそ、霊力のこと、霊門のこと、そして幽霊の寿命について知っていたのである。 「門番は生身の人間に手出しはしない。でも怖いようなら、一日に何度も通るのはやめるんだな。なぁに、今まで一方通行だった分を、こまめに戻って、元に戻せばいい」  伝吉は軽く言ってくれたので、亮太も気が楽になった。 「霊感が無くなると、伝吉さんにも会えなくなるの?」  昨日から考えていたことを、亮太は伝吉に聞いてみた。 「そうだなあ、俺も少しずつ霊としての終わりの時期が近くなっているのを感じているから、この夏を超えれるか、超えられないかってところだろうよ」  伝吉は頼りなく笑った。 「この世に未練はないの?」 「ないさ。そりゃ死んだ直後は、戦禍に巻き込まれた悔しさで怨嗟の炎に焼かれていたけど、これだけ時間が経っちゃえばもう十分だ。ダラダラとこの世に残っちまったけど、もういいかな、って思えるよ」 「幽霊は寿命を迎えるとどうなるの」 「さあ、それは俺もまだ幽霊になってから死んだことがないから、わからないな」  伝吉はカラカラと、人の良さそうな笑顔で笑った。 「でも、風になって消えることができたらいと思う。これまでだって、意識がない時は、空気みたいな白い影になって、ふわふわとそこら辺を漂っていたんだ。この世からおさらばするなら、フッと軽やかに消えたいね」  その後、亮太は塾に向かう時にトンネルを通ることをやめた。夏期講習が終わると、毎週土曜日に図書館に行くことを習慣にした。図書館からの帰り道だけ、静かにそーっとトンネルを逆方向に入り、少しずつ夏の霊感を清算していった。夏休みの間、一度だけオジンと遭遇した。もし、オジンが本当は霊門の門番様だったらどうしようと思うと怖かった。亮太はオジンに顔を見られないよう、俯き加減でその場を立ち去った。  伝吉はだいたいいつも、三の丸広場の向かいの休憩所にいた。亮太の霊感が無くなるのと、伝吉の寿命が尽きるのは、同じぐらいのタイミングであった。 「伝吉さん、あと一回霊門を通ったら、霊感を全部清算できるよ」 「よかったじゃないか」 「でも、この霊感を全部清算しちゃったら、伝吉さんに会えなくなるの?」 「気にするな、俺もこの八月を超えられないだろう」  八月の終わりごろになると、亮太の霊感が減ったせいか、それとも伝吉の霊としての寿命が尽きようとしていたせいか、伝吉の姿はうすぼんやりとした白い影にしか見えなくなっていた。  それでも亮太と話ができるのは、ひと夏のふたりの絆のおかげだろうか。  亮太はベンチから立ち上がり、伝吉に別れのあいさつをした。 「じゃあ、伝吉さん。僕は今日これから最後の一回を通り抜けるから、これでさようならだ」 「そうか、まだまだ暑いから熱射病に気をつけろよ」  物知りな伝吉は、戦国時代の人らしからぬ、実に現代的な心配りの言葉をかけてくれた。 「ふふ、最近では、熱射病じゃなくて、熱中症っていうんだよ」  あまり深刻にならないように、亮太もつとめて明るく返事をする。 「そうか、熱中症って言うのか。そりゃいい冥土の土産ができた。あの世の先輩たちに、この世の流行を教えてやるよ」  夏の終わりと共に、亮太は霊感を失い、伝吉は涼やかな風になった。 (注1)本作はフィクションで、実際の人物・団体とは関係ありません。 (注2)本作でトンネルと表記している場所は、正しくは隧道(岩谷隧道・いわやずいどう)です。
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