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「わっ!」
ソフィアは持ち前の体幹力で後方に倒れ込み、ひんやりとしたコンクリートの床に尻餅をついた。ソフィアの手からは、アネットのネックレスが溢れた。
「いたた……。もうなんですの……」
ソフィアが尻餅をついた場所は、廃れた雑踏ビルの屋上だった。通りを二つほど挟んだ向こう側は、飲み屋や大人の社交場が連なる夜の街。当然、ソフィアはそれを理解できるはずがない。
「あら? アネットは?」
辺りを見渡すも、ソフィアが全く知らないものばかりだったが、どうやら鉄格子からは抜け出せたらしい。
「ここはどこかしら。空気もいつもと違う気がしますわ」
飲食店の換気扇から吐き出される煙、側溝に落ちている無数のゴミ、車の排気ガス……この街は特に汚染物質が人々の生活の中に混在していた。
ソフィアが辺りを見渡すと、アネットのネックレスの横にメッセージ画面が開かれたままのスマートフォンが落ちていた。
「これは何?」
ソフィアはそっと手に取り、不思議そうに画面を見る。すずという人物が、雅也という相手に送ったメッセージのトーク画面が開かれたままだった。そこには『ずっと避けていてごめんね。私といると雅也を傷つけてしまうと思って…。雅也と過ごした時間は宝物だったよ。今までありがとう、さようなら』と書かれていた。
「あら、なぜか異国語が読めてしまったわ。でもどういうことかしらねぇ?」
ソフィアは不思議と文章を読むことができたが、この物体は何なのかは検討もつかない。ソフィアは現状に混乱していると、頭の中から嘆く声が聞こえた。
『なんで落ちなかったのよ!!』
「えっ!?」
ソフィアは背後を振り返るも誰もいない。しかし声はハッキリ聞こえたのだ。この声の主が誰か分からなかったが、ソフィアは冷静に返答した。
「誰だか分かりませんけれど、落ちたら死ぬわよ?」
『死ぬために落ちるのよ……死なせて、お願い』
ソフィアの意思とは反して、勝手に体が起き上がり足が動き出した。
「ちょっと、どうして私の体が動くんですの!?」
ソフィアは足に力を入れ抵抗するも、女性の意思が強いからなのか言うことを聞かず、重い足取りでビルの隅に向かって行く。
『私の体だから! そもそもあなた誰よ! 私の体を返して!』
「意味が分かりませんわね……」
ソフィアは、いつもの癖で肩にかかった髪を払おうとするも、腰ほどまであるはずの長い髪が肩にかかる程度で終わっている。そして髪色もブロンズから黒になっていた。
『見てもらった方が早いか。鞄の中に鏡があるから、出して』
ソフィアは言われるがままに鏡を取り出し、自身の顔を見ると──
「だ、誰ですのーーー!?」
驚嘆した声が閑静な雑居ビルに響き渡った。髪だけでなく、瞳も真っ黒。鼻も低く、唇も薄い……ソフィアの面影は何一つ残っていなかった。
「ど、どういうことですの!?」
『勝手に入ってきておきながら、何言ってるの? 早く出て行って』
どうやらソフィアの魂はこの女性の中に入ってしまったらしいが、魂は入れ替わることなく、一つの体に二つの思考が存在した。アネットの魔法とソフィアの魔法がぶつかり合ったことで、魔法が本来の力を発動せず、何かしらの異変が生じたのだろう。
『これで分かったでしょ。とにかく、私は死ぬんだから……もう決めたんだから……!』
「やめなさい! 私はどうなるのよ」
『知らない』
「そんな身勝手なこと私が許しませんわ!」
地下牢でアネットの胸ぐらを掴んだ時、自身の魔力が解放されたのがわずかに分かった。ソフィアはアネットが魔法を発動させた一連を思い出し、見よう見まねで魔法に挑戦してみることにした。
「この体から出して、元の場所に戻して!」
ソフィアから白い光が小さく放たれ魔法が発動したが、体から出たのはソフィアではなく、女性の方だった。女性は背後霊のようにソフィアの後ろで宙に浮かんでいた。
「はぁ!? どうしてあなたが出るのよ!」
『こっちが聞きたいよ!』
「まだ使いこなせないわね……もう一回やるわよ!」
魔力が解放されたばかりゆえに、魔法を使いこなせていなかったようだ。何度も繰り返すが、ソフィアが女性の体から出ることはなかった。同じ顔の者同士が睨み合っているが、やはり顔は心を映し出す鏡のようで、ソフィア側はキリッと目つきがきつく活き活きとしているが、女性側の方は瞳に光りは宿っておらず、悲壮感が漂い血の気が通っていなかった。
『とにかく私はもう、終わりにしたいの……。あなたが出ないのなら、一緒に死んでもらうわ』
「命を粗末にしないでちょうだい! 私は明日を生きたかったわ!」
ソフィアは死刑宣告されていたことを思い出した。明日を生きたとてソフィアに居場所なんてなかったかもしれないが、それでも死を迎えるのは怖かった。
『私の気持ちなんて分からないくせに! 止めないで!』
「そうね、分からないわ。でも、そうやってあなたは他人に何も伝えることもせず、理解してもらおうだなんて、甘えではなくて? 自分で自分を苦しめているだけではなくて?」
『う、うるさい!!』
女性がそう強く放つと、ソフィアの頭の中に女性の記憶がぐわんっと流れだした。
──あら、この子の記憶が頭に流れてくる。高塚すず、二十一歳……
ソフィアは走馬灯のように流れてくる記憶を、目を瞑って見ていた。よい思い出はほとんどなく、どれも苦しい経験ばかり。ソフィアは見ていて気分が悪く、記憶を巡るのを止めた。
「はぁ……。あなたも気の毒だと思うわよ。学園では虐められ、ろくでもない親の元に生まれ、その親に無理矢理入れられたキャバクラ?っていう社交界でも虐げられて……私が言うのも何ですが、ろくな人生ではありませんわね」
『どうして分かるの……』
「さぁ? でも、この体に入ったからなのか知りませんが、あなたの記憶は私にも伝わってくるみたいですわ」
恐らく、異国の文字が理解できていたのもすずの力なのであろう。
『それなら分かったでしょう!? 私がいかに大変で辛くて苦しかったか……!』
「えぇ。でも、私ならそのような状況でも死のうだなんて思いませんわ。そんな卑しい人たちのために、私の大事な命を捧げたくありませんもの」
『……』
その一言が心に響いたのか、すずは足を止めた。
「さて。とりあえず、私は自分の体を探さないといけませんわね。すず、ここはどこかしら?」
『どこって、歌舞伎町だけど』
「カブキチョウ? どこですの? ヨータイン国にそのような地名の場所はありませんわ」
『ヨータイン国? よく分かんないけど、ここは日本だよ』
「ニホン……?」
全く知らない土地に来てしまったソフィア。頼れる人もおらず、どうしたものかと悩んでいると、地面に落ちていたアネットのネックレスがぽうっと一瞬、光を放った。
「光った!? もしかしてアネットもこの国に来たのかしら?」
自分で転移できないのであれば、アネットを探し出すしかない。それに、アネットに先に帰られてしまっては、故郷を滅ぼすことになる。
「ちょっと体を借りるわよ」
アネットのネックレスを首にかけたソフィアは外階段に向かうも、またもやすずに止められてしまう。
『待って。どこに行くの』
「向こうの光の方よ。パーティー会場なら、アネットがいるはずだわ」
『……嫌だ。行きたくない』
「嫌よ、私は行きたいもの。それに、私が入らなければこの時間はあなたにとってなかったものだったはず。私の人生まで奪わないでちょうだい」
『……』
強気なソフィアに反論できず、すずは黙り込んでしまった。
***
ネオン街を歩く、ソフィアとすず。すずは周りの目を気にしながらソフィアの後をついていくも、ソフィアは辺りを見渡しながら勇ましく歩いて行く。
「夜だというのに、この国はこんなにも明るいのね」
『……普通だよ』
装飾が派手なネオンを見ては、ソフィアは足を止め観察した。ホストの顔と名前が載った看板が気になり、まじまじと見ている。
「顔と名前が大衆の前に晒されてるなんて、罪人かしら?」
ソフィアの国では、商売として顔と名前を晒すことがなかったため、ホストクラブの看板には理解できなかった。
「おねーさん、暇ならうちの店で遊ぼうよ」
韓国アイドル風な外見の若手ホストが、ソフィアに声をかけた。ソフィアが見ていた看板と全く同じ顔である。
「あら、これはどういうこと?」
『ひっ……ホストのキャッチだと思うけど、されたことないから分かんないよ……!』
「うちの店の看板、見てたでしょう?」
ワイシャツが第二ボタンまではだけているのを見たソフィアは、ぎょっと目を丸くした。
「スーツは第一ボタンまでしめ、美しく着るのが基本ですわよ」
ソフィアは男性の胸元に手をあて、ボタンを締める。
「……え?」
「こちらの方が素敵ですわ」
「あ、あぁ……どうも……」
「それと、あなた臭いですわ」
「く、臭い!?」
「えぇ。鼻がとっても曲がりそうよ。香水をつけすぎなのではなくて? とにかく、私はあなたのような罪人を相手する暇はございませんの。見逃してあげるだけ、感謝しなさい」
ソフィアは颯爽に去って行った。
「キャッチを断られて、どう感謝しろと……?」
変わった子がいるもんだ、とホストはソフィアの後ろ姿を呆然と眺めていた。
看板に見飽きたソフィアは、次は、飲食店の美味しい匂いに惹かれ店に近づいていた。ソフィアの腹の音が地響きのようにぐうっと鳴る。
「お腹が空きましたわ。すず、何か食べ物はありませんの?」
『ちょ、ちょっと。道で私に話しかけないでよ。おかしい人だと思われちゃうから』
「あぁ、そうでしたわね」
『あそこにコンビニがあるから、そこでいい?』
コンビニというものがなにか分からないが、ソフィアはすずの指示に従いコンビニへ向かった。
「あら、眩しいですわね。それになんだかいろいろな物が置いてありますけれど……市場かしら?」
『とりあえず、肉まんでいいでしょう?』
コンビニで知り合いに遭遇するかもしれない。すずはコンビニから一目散に逃げたかった。すずの指示通り、レジへ行き肉まんを一つ注文した。
コンビニを出ると、すずが店外の隅へソフィアを誘導した。外で食べるなど令嬢として品がないわと思いながらも、この国の習慣ならば従わなければと、両手で肉まんを持ち、ソフィアは大きな一口で頬張る。
「こんな美味しいものは初めて食べましたわ! 帰ったらシェフに教えて差し上げましょう」
『シェフ?』
「えぇ。レングール家専属のシェフですわ」
『どこのお嬢様なの……』
「あぁ、名乗っていませんでしたわね。私、ソフィア・レングールと申します」
『そういうことを言いたいんじゃなくて……』
腹を空かせた野犬が餌にがっつくかのように、ソフィアはぺろりと食べ終えた。アネット捜索を再開しようとするも、鞄の中でスマホの着信音が響いた。ソフィアが手にすると、そこには店長の文字が。
「店長?」
『ひっ……嫌だ……出なくていい……』
震え出すすずから、ソフィアに記憶が届いた。
「キャバクラの店長……? キャバクラってあの社交界のことよね?」
『……そう』
「それなら、アネットがいるかもしれないわ。私は行くわよ」
『……嫌だ、やめて!! そこに行くのなら、死んだ方がマシ』
すずはもう一度自殺を図ろうと踵を返す。しかしソフィアは足に力を込めて、すずの歩みを止めた。
「あなた、いつまで逃げるつもり!? 自分でなんとかしようと思わないの!?」
ソフィアは道のど真ん中であったが、お構いなしに声を荒げた。周囲からは酔っ払いの女性が大きな独り言を呟いているのだろうと思われているに違いない。
『もう無理なんだよ! 普通に生きたいよ、私も! でも望んでも手に入らなかった。どうしたって無理。もう変われないんだよ!!』
すずは涙をこぼし自棄気味に訴えた。
「手に入れるまであがきなさいよ! 私は、どうしてこうなったか分からないけれど、自分を取り戻すまで泥水すすってでも生きてやるわよ!! 自分の人生は自分で変えるしかないのよ。死んだら何も変えられないのよ!? あなたの宝物だった思い出も消えるのよ!?」
すずが雅也に最期にあてたメッセージに書かれていた言葉を、ソフィアは投げかけた。すずにとって、雅也は特別な存在なのだろう。すずが引っ張っていた足の力が一気に抜け、ソフィアは前に倒れそうになった。
「キャバクラに行くわよ。変われるってことを証明してあげるわ。もし変われなかった時は、好きにしなさい」
すずの記憶を頼りに、ソフィアはキャバクラへ歩き出した。
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