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1866年(1)
その日、フィリップ・ストックが午後の散歩から戻ると一通の小包が届いていた。
差出人は『リテラ・ゴディカ』紙の副社長兼編集長イザベラ・スミスだ。彼女は結婚しているのだが、今でもイザベラ・スミスで通している。
イザベラとの付き合いはかれこれ三十年に及ぶ。
彼女と初めて会ったのは1835年のことだった。当時、フィリップはロンドン市内にあるイズリントン管区の警察署で書記として働いていた。休日に釣りに出掛けた湖畔で彼女と出会った。その後、フィリップは定年を待たずに警察を退職し、オックスフォードに転居した。イザベラ・スミスはというと、ロンドンで新聞社の副社長兼編集長になった。さぞかし忙しいだろうが、彼女は今でも事あるごとに手紙をくれる。
小包にはイザベラの手紙と一冊の雑誌が同封されていた。
先ずは手紙を読む。最近、目がぼやけ、物が二重に見えて困っていると書いてあった。フィリップよりも幾つも年下のイザベラだが、視力の低下は仕事のし過ぎであろう。手紙の続きには、イザベラの夫が貸本屋を始めたと記されていた。鉄道での長距離移動は時間が掛るので退屈してしまう。そこで主な駅には貸本屋ができた。彼女の夫はロンドン市内で書店を営んでいたが、今度は貸本屋にも乗り出したというのである。
手紙をおいて、雑誌を取り上げた。アシーニアム誌の最新号である。栞が挟んであるところを開くと、そこには『ロバート・シーマー・ジュニアによる手記』が載っていた。
「あれから三十年になるのか・・・」
フィリップは思わず唸った。それから、眼鏡を掛けて『手記』に目を通した。
『ロバート・シーマー・ジュニアによる手記』
【もともと『ピクウィック・ペイパーズ』のプランは、スポーツ好きのロンドン子たちの狩猟クラブ員の冒険談でした。アイデアと題名は父、ロバート・シーマーの創造物でした。父はこれをマクリーン氏に見せたところ、出版するなら、挿絵に添える文章をセオダー・フック氏に書かせてはどうかと提案がありました・・・】
1836年に刊行が始まった『ピクウィック・ペイパーズ』はチャールズ・ディケンズの著作である。ピクウィック氏やサム・ウエラー氏の数々の行状はイギリス中に知れ渡り、その人気にあやかって陶製の人形やサム・ウエラー様式のズボンまで販売された。分冊形式で発行された第一号と第二号には、挿絵画家ロバート・シーマーが挿絵を描いた。ただし、それは第二号までで、第三号以降はハブロ・ブラウンが挿絵を担当した。その理由は、シーマーが亡くなったからである。
シーマーは自ら命を絶ったのだ。
挿絵画家の息子シーマー・ジュニアは、ディケンズ作の『ピクウィック・ペイパーズ』は父ロバート・シーマーの発案だと言うのである。それも、出版から三十年も経った1866年になってである。
しかし、これを根拠のない発言と決めつけるわけにはいかない。
警察に勤めていたフィリップは、シーマーが亡くなった日に彼の仕事場を訪れた。また、彼の死を巡って関係者に聞き取り調査をして回った。駆け出しの新聞記者だったイザベラ・スミスも同席した。
そうやって集めた証言をもとにすると、ロバート・シーマーの突然の死には不明瞭な点があることが拭いきれなかった。そして、『ピクウィック・ペイパーズ』が、チャールズ・ディケンズ一人の創作物であったとは断言できない面もあったのだ。
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