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3.破身
工場は自転車操業状態だったが、父親は容子の高校進学を渋々認めた。
中学で学年一位の成績だったので、もっと偏差値の高い高校に合格できた筈だが、自転車で通える県立高校を選ばざるをえなかった。正人は、その偏差値の高い県立高校に進学し、白いヨーコは都内の私立女子高校に進学した。
正人は高校でも野球部に入り、会える機会はぐっと減った。一方のヨーコは、休みの日に度々顔を合わせる。中学二年のあの日以来、容子は青葉照男のモデルをずっと続けていた。
携帯電話で連絡を受け、週末にヨーコの家を訪問し、二~三時間モデルをやって一万円のアルバイト代を貰い、道江の美味しいランチをご馳走になる。一方、北尾鋼材はどんどん苦しくなり、長年事務仕事で働いてくれた人も解雇した。その分、母と容子が手分けをして手伝った。もちろん、無給だ。
工場の経営が苦しくなると、父と母の喧嘩が増えた。殺伐とした家にいたくなくて、容子はヨーコのお父さんに電話をして、アルバイトを増やして貰った。
「青葉社長に、おまえからも頼んでくれないか」
師走になって、げっそりとやつれた父がそう言った。うちで加工した部材の価格を上げてもらわないと、どうにもならないのだという。
「このままだと、年を越せない」
うなだれた父に、容子は返す言葉がなかった。
「お父さんが自分で頼んでよ」
その言葉に父は激高した。
「何度も頼んでいるんだよ!」
母が、火に油を注ぐような追い打ちをかけた。
「お願いの仕方が悪いんじゃないの?」
容子がびっくりするほど、冷たい言葉だった。母親は、このところ実家に戻る頻度が増えている。個展を開いたアーティストの元同級生が、地元に戻って活動を本格化させているらしい。先日、実家に戻った母親が、父のいないところで見慣れないブレスレットをして鏡の前に立っているのを見た。その人にプレゼントされたのだろうと容子は察した。
容子はいたたまれず、ヨーコのお父さん……青葉照男に電話をした。
「どうしたんだい?」
夜中にかけた電話なのに、青葉社長は優しい声で応対してくれた。
「あの……明日なんですけど……」
「明日は天皇誕生日でお休みだね」
「はい……そうなんですけど……家にいたくなくて……」
「わかった。でも、明日、ヨーコは出かけて留守だし、道江さんもお休みだよ」
「いいんです。社長がいてくれれば……」
「わかった。何時でもいいから来なさい」
リビングから、父と母が言い争う声が聞こえた。
何かが割れた。
一分一秒でも早く、青葉社長のところに行きたかった。
再び、何かが割れる。
容子は高校の制服に着替え、階段を駆け下りた。モデルをやるときには、いつも着ている。
「容子、どこへ行くの!」
「青葉さんの家に泊めて貰う」
「こんな時間に、いい加減にしなさい!」
母の言葉を無視して、容子は飛び出した。
歩いて五分の距離ならコートがなくても平気だ。容子は一気に走った。
そして、青葉家の門扉を開けたとき、やっと冷静になった。
(こんな時間に……迷惑かけちゃう……)
嫌われるのが怖かった。容子は玄関脇にうずくまる。その姿をセンサーライトが捉え、照らした。誰かがいると室内でもわかったのだろうか。玄関のドアが開き、青葉社長が現れた。
「どうしたんだい!」
「ごめんなさい……来ちゃった……」
平気だと思ったが、容子は寒さで震えていた。
「風邪引いちゃう。さあ、中へ入って――」
青葉社長に肩を抱かれ、暖かな室内に入る。
「スープが残っているから、すぐに温めるよ」
容子をリビングのソファに座らせ、青葉社長はキッチンに立った。道江は、もういないようだ。
「ヨーコは、もう寝たんですか?」
「いや……」
キッチンから曖昧な言葉が聞こえた。
温かなクリームスープをカップに入れて、青葉社長が持って来てくれた。
「何があったんだい?」
「工場のことで、父と母が喧嘩して……」
「そうか。お父さんから値上げの件でお願いされているんだが、北尾鋼材さんだけ値上げするわけにはいかなくてね。取引先の全社となると、さすがにウチも耐えられない。だから、申し訳ないのだけど、お断りするしかなくてね……」
青葉社長は苦しそうに俯いた。
「ぼくは、一杯飲ませて貰っていいかな」
壁際の立派な飾り棚からブランデーの瓶を出し、青葉社長はグラスに注いだ。それを持って容子の正面に座る。乾杯の仕草をして、グラスに口をつける横顔がダンディだ。
「それだけじゃないんです。多分、母は不倫していて……父もそれに気づいていると思うんです。ギクシャクしちゃって……」
「それは、辛いね。ここへ来ることは、ご両親は知っているのかい?」
「はい。飛び出すとき、言ってきました」
青葉社長は安心したのか、にっこりと微笑んだ。
「実はね、前々からキミには伝えなきゃいけないことがあったんだ」
容子はスープのカップを両手で包み、首を傾げた。
「本当は、今日みたいな日ではなくて、きちんとそのためにキミと向き合って伝えるべきことなんだけど……」
悪い予感がした。
「今夜、ヨーコはここにいないんだ」
「え?」
「勝部正人君のご家族と一緒に、スキーへ行った」
一瞬、この人は何を言っているのだろう、と理解できなかった。
「キミが幼馴染みの正人君と交際していることは知っている。でもね、もう何年も前になるのだけど、正人君には陽子の許嫁になって貰ったんだよ」
許嫁――。
そんな言葉が現代に生きているなんて、容子は知らなかった。
「正人君は次男坊だ。勝部金属はご長男が継ぐ。私には一人娘の陽子しかいないからね、正人君を婿養子に迎えて、この会社を継いで貰う約束なんだ」
いつの頃からか、正人は次男であることの不満を言わなくなっていた。
「ぼくは正人君のお父さんと古くからの友人で、親同士で勝手にそう決めさせて貰った。高校生になって正人君に話し、受け入れて貰ったんだ」
きっとヨーコはずっと前から知っていて、あたしを嘲笑っていたに違いない。あいつは、とっくにあたしを殺していたんだ。
「今日まで黙っていて、本当に申し訳ない」
青葉社長はあたしみたいな小娘に深々と頭を下げた。正人君が受け入れた以上、もうどうにもならない。そうだとわかっているのに、あたしの中でドス黒いなにかが芽生え、急速に膨らんだ。
(あいつは許さない――)
まるで、ひとつの生きがいを得たように、容子は自分の運命を嗤った。たったひとつの宝物を失った今、失うものはもう何もないし、あとは、がむしゃらに手の届くものを片っ端からかき集めればいい。
「教えてくださって、ありがとうございます」
容子が泣き叫ぶとでも思ったのだろうか。青葉社長は意外そうな顔を上げた。容子はダンディな社長に微笑んでみせた。
「最近の正人君の態度から、何かあるなって感じていました」
「キミは賢い子だからね」
青葉社長が本気でそう思ってくれているのだと、子供の頃から容子は感じていた。
「辛い思いをさせてすまない」
「いいえ、正人君が望むことなら、あたしは何も言うことなんかありません」
「わかってくれて、ホントにありがとう。じゃあ……」
青葉社長は何かを言いかけ、口をつぐんだ。
「いかんいかん、一杯やろう、と言いそうになった」
「あと三年、待ってください」
ダンディな男の表情が止まった。
「あと三年、待たせて貰えるのかな?」
容子は、おそらく人生で最高の笑顔を作った。
「もちろん。あたしも、三年待ちます」
二人の間には、とても暖かな空気が流れた。その裏側にあるドス黒い塊なんか、どこにも存在しないように――。
「泊まるなら、陽子のベッドを使ってくれるかな」
探るような眼差しを容子は打ち返す。
「一緒じゃダメですか?」
青葉社長は戸惑った顔でこう返した。
「正人君のことで自暴自棄になってるわけではないよね?」
容子は真顔で応える。
「そんなふうに、見えますか?」
青葉社長はグラスを煽り、容子は追い打ちをかける。
「バージンを受け取るなんて、うっとうしいですか?」
空のグラスがテーブルに置かれた。
「でも、キミはまだ……」
「クラスの子は、もうだいたい済ませていると思います。ヨーコだって、たぶん、正人君と……」
一度、容子から視線をずらし、青葉照男はグラスの氷を鳴らした。
「……いいのかい?」
容子は頷き、こう続けた。
「モデルをやっていると、なんだかわかるんです。レンズを通して、この人は真実のあたしを探してくれているって。そのうち、だんだん……好きになっちゃった……」
青葉照男は、もう何十年も探していた宝物を見つけたように破顔した。
「こんなぼくでいいのなら、残りの人生をかけて、キミを大切にしたい」
容子は深呼吸した。
「よろしくお願いします」
黒い容子が最初に白いヨーコから奪ったのは、青葉照男という新京葉鉄工所の社長だ。父よりも年上だけど、ずっと若く見えるダンディな男に肩を抱かれ、容子は階段を上った。
ベッドに並んで座り、目を閉じる。
容子にとって二人目のキスは、とても柔らかで、優しかった。
ゆっくりとベッドに寝かされて、男の手が制服のボタンを外す。
唇が絹のような肌を這い回り、舌が弄び、指先に奏でられ、ただ、なすがまま波に揺られる。肌も、関節も、肉も、全てを男に委ねて容子はたゆたい、己の声とは思えぬさえずりを啼き、そうしながらも進むべき道の地図を描き、最初の戦利品に抱かれる。
やがて容子は貫かれ、その痛みさえも歌に替え、初めて知る甘美な肉体の変化を味わい尽くす。次第に男は昂って、激しい息遣いが離れようとした。容子はそれを追いかけ、男に微笑んだ。
「大丈夫。今日は安全日だから……」
男は目を輝かせ、再び愛おしい女を貫き、いっそう激しく腰を振った。可憐な両足が、ひらひらと蝶になって空を舞い、小さな呻きを伴い熱い濁流が堰を切る。存分に放たれた男の一滴さえも逃さず女は受け止め、洞窟を逆流した己の残滓を男はティッシュで拭った。
「愛している――」
耳元に囁かれる言葉を訊きながら、「あたしも」と応えたその手で濡れそぼる男を奮い立たせ、容子は二度目の舞いを踊ってみせた。
(何もかも奪ってやる――)
こうして、北尾容子はロストバージンした。 (つづく)
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