兵庫県神戸市在住の84歳女性の願い

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兵庫県神戸市在住の84歳女性の願い

加藤道子は兵庫県神戸市西区在住の84歳。25年前に夫と死別し、今は息子夫婦と一緒に牧場を経営している。兵庫県で飼育される黒部和牛(但馬牛)は牛肉の三大ブランドである神戸牛として有名だ。 畜産業者の集まりに参加した帰り道、急に飛び出してきた猫を避けようとして道子は急ハンドルを切った。その弾みで車はガードレールに衝突した。 道子は衝突事故の直後意識を失っていたが、しばらくして意識を取り戻した。 ここは人通りのない田舎道だから助けが来るかは分からない。 身体を動かそうとしても、自力では動けそうにない。 車の中でどうするか考えていると、少年と白い猫がやってきた。 さっき避けた猫ではなさそうだ。 白い猫は襷(たすき)のような布を掛けていて、そこには『私は死神です』と書いてある。 ――猫の死神か…… 状況が状況なだけに笑えない。 少年の方は、近くに住んでいる小学生だろうか? 少年は道子のところにやってきて「加藤道子さんですか?」と言った。 なぜ自分の名前を知っているのか不思議に思いながらも、道子は「そうよ」と答えた。 「残念ですが、あなたは今から30分で死にます。今、午後4時22分ですから午後4時52分にご臨終です」と少年は言った。 「あと30分か……。人間が死ぬときは呆気ないものね」 道子はこれまでの人生を思い出しているようだ。 感傷に浸る道子を見ながら、猫は言った。 「そうだなー。死ぬ時はみんなそう言う」 「猫が喋った?」 道子は驚いたようだ。 「喋ったぞ。お前、これ見えなかったのか?」 猫はそう言うと、『私は死神です』を指した。 「それ? 冗談だと思うでしょ。そんな『本日の主役』みたいな宴会グッズ付けて……」 「宴会グッズ……」 ショックを受けた猫は少年に高圧的に言った。 「バカにされたぞ? お前が『これ付けたら説明が省略できる』って言ったんだぞ!」 「ごめん、ごめん。でも、道子さんは死神だって分かったと思うよ」 少年は猫を諭す。 猫は念のために道子に確認する。 「俺は死神だ。信じるか?」 道子は死に際の人間に毎回『この猫が死神?』と言われる状況を理解した。 だから『私は死神です』の宴会グッズを付けることになったか……。 もし、「信じていない」と言うと、猫と少年が喧嘩を始めるだろう。 そのなんやかんやの中、道子は死んでいくことになる。 死に際としては最悪だ。 道子は少し迷ったものの忖度(そんたく)して言った。 「ええ、信じているわ」 猫は気を良くしたようだ。 「お前、最後に何か願いはあるか?」と猫は道子に聞いた。 「うーん。そう言えば、やり残したことが1つある……かな」 「じゃあ、お前が死ぬ前に、俺にお前の話を聞かせろ。いい話だったら、お前の願いを叶えてやるぞ」 「本当に? それはいいわね。死神は最後に願いを叶えてくれる職業なのね」 「お世辞はいいから早く話せ。午後4時52分に死ぬんだぞ。時間厳守だ!」 「分かったわよ」 そう言うと、道子は話しはじめた。 *** 私が清一さんと会ったのは、今から50年くらい前のこと。 その日は、夫と子供は九州で開催された牛の品評会に行っていて、私は一人で留守番をしていた。 清一さんはカメラマンだった。 写真を撮るために橋を探していたんだけど、道に迷ってうちの牧場にやってきた。 私は橋の場所を知っていたから、清一さんを橋まで案内したの。 清一さんは橋の写真を撮った帰り、私に御礼を持ってやってきた。 紳士的で感じのいい人だと思ったわ。 次の日、清一さんは橋の写真を撮りに行くためにうちの牧場の前を通ったの。 私も休憩中だったから、少しの間、清一さんと立ち話した。 清一さんは全国を旅しながら写真を撮っていると言っていた。 私は清一さんともう少し話したかったから「夜に食事を食べにいらっしゃらない?」と誘ったの。 すると、清一さんは照れながら「おじゃまでなければ」と言って橋に向かっていった。 その日の夜、清一さんは花束を携えてやってきた。 真っ赤な薔薇よ。 お店で買うのは恥ずかしかったでしょうね。 私は生まれて初めて花束をプレゼントされたから嬉しかったわ。 清一さんと一緒に食事をしながらいろんな話をしたわ。 私は魅力的な清一さんに直ぐに惹かれた。清一さんも私に惹かれたようだった。 その日、私たちはそういう関係になった。 その日から2日間、清一さんと一緒に過ごした。 清一さんが橋の写真を撮るのについて行ったし、少し離れた場所でデートもしたわ。 近所の人に見られると困るからね。 清一さんと一緒にいて、楽しかったわ…… でも、清一さんとの関係は長くは続かなかった。 品評会が終わると家族が帰ってくるからね。 清一さんと初めて会って4日目の夜、私たちは一緒に食事をしていた。 翌日には家族が帰ってくる予定だったから、最後の晩餐ね。 私たちはお互いの立場を理解していた。 だけど、理性が効かないくらいお互いを愛してしまっていたの。 ――別れるべきか、一緒に人生を歩むべきか? 私は清一さんを前にして、ずっと考えていたわ。 それを察して、清一さんは「僕と一緒に来てくれないか?」と私に言ったの。 私は迷ったわ。 私は家族を愛していた。 それと同じか、それ以上に清一さんを愛していた。 もし清一さんと一緒に行かなかったら、私はこの家に縛られて生きていくことになる。 そして私はその苦しみを清一さんのせいにするでしょう。 それだけじゃない、この美しい4日間までが愚かな間違いだったと思うようになる。 決めかねている私を見て、清一さんは「いや。君はここに残るべきだ」と言ったの。 そして、私の元から去っていったわ。 清一さんが去ってから20年が過ぎたころ、夫が死んだ。 私は清一さんを探した。 でも清一さんは既に亡くなっていた。 私と別れた後、結婚しなかったみたい。 私は清一さんの親戚から『永遠の4日間』という写真集を受取った。 その写真集には、若い私と清一さんが写っていたわ。 あの時のままで…… 私は思うの。 私たち二人はあの4日間の出会いのために生きてきたのよ *** 道子の話を聞いた猫は考えている。 どう判断していいのか、決めかねているようだ。 考え続ける猫…… 午後4時52分に死ぬから、考えている猶予はない。 少年は猫に「いい話だったと思うけど、どうしたの?」と聞いた。 「いや、気になることがあってな……」猫はボソッと言った。 「何なの?」と道子は尋ねる。 決心を決めた猫は、道子を見据えて言った。 「一応確認なんだけど……さっきの話は二次創作とかパクリじゃないよな?」 道子はニヤッとして「違うわよ。どういうところが?」と猫に聞く。 「橋、カメラマン、牧場、4日間、不倫……。俺はこの話を知ってるんだ」 「へー。どういう話?」 道子は相変わらずニヤニヤしている。 「舞台はアメリカだ。日本じゃない。映画化もされた。橋の写真を撮りにクリント・イーストウッドが片田舎に来るんだ」 「そして、私がメリル・ストリープ?」 「お前、やっぱりパクってるじゃねーか!」 猫は小さな体から想像できないくらいの声量で言った。 道子は猫に笑顔を向けながら言う。 「パクってないわよ。だって、その話は私の話だもの」 「うそつけー! 何を言ってんだ?」猫の怒りは収まらない。 「だって、その話は私の実話。書いたのは私。日本の田舎の牧場で不倫の話を書くと、『この話、お前の嫁の話じゃねーのか?』とか詮索されるでしょ。全国の黒毛和牛の畜産農家が疑われるのはどうかと思ったのよ」 半信半疑の猫は道子に確認する。 「で、アメリカにしたのか?」 「そうね。アメリカの牧場だったら日本の牧場が疑われないでしょ。それに、ペンネーム使って英語で出版したしね」 「全世界でヒットして、清一がクリント・イーストウッド、お前がメリル・ストリープになったのか……」 「そういうこと。英語版は翻訳が上手くなかったから、あまり売れなかった。でも、日本語版は大ヒットした。だって、原作は日本語で書いてるからね」 「へー。いろいろあるんだな。本当かどうか確認しようがないけど」 「ところで私の話はどうだった?」 猫は少し考えてから言った。 「合格でいいよ。お前の願いを叶えてやる。最後の願いは何だ?」 「ちょっと恥ずかしいけど、いいかな?」道子は遠慮がちに言った。 「別にいいぞ。約束は約束だ!」 道子は深呼吸した後言った。 「私の自宅のパソコンのデータを消去してくれないかな?」 「え?」 猫が想像していなかった願いだ。 ――おばあちゃんがエロ動画? 猫は念のために道子に質問した。 「確認なんだけど、パソコンにエロ動画が入ってるから消してほしいのか?」 「違うわよー。消してほしいのは本の原稿よ」 「え? 外人の名前しか出てこないんじゃないのか?」 「あれは編集で名前や地名をアメリカに変えてもらったの。原稿は、日本語のまま」 「清一と道子がダンスしてるのか?」 「そうよ。橋も家の近くだし、完全に特定されるわ」 「それは困るなー」 「困るわよ。だからパソコンのデータを消してほしいの」 「分かった、分かった。消しといてやるよ!」 「本当でしょうね?」 「大丈夫だ。俺は死神だぞ?」 「ありがとう……」 そう言うと道子は遠くを見たまま動かなくなった。 *** 「午後4時52分。いい顔をしてるね」と少年は言った。 「そうだな。これで安心してあの世に行けるだろう」 「この人の場合、不倫の証拠なのかな?」 「そうとも言えるな。しかし、あの話が清一と道子だったなんてな……」と猫は少年に言った。 「僕は読んだことないんだけど、今度読んでみるよ」 「今回も俺たちはパソコンのデータ消去屋だったな……」 そう言うと猫と少年は事故現場から立ち去って行った。 【あとがき】 この話はフィクションです。
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