ワタシハ誰デスカ。

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付き合ってはいない。 ただ、時々思い出したように好きになる(ひと)がいた。 高校の時、3か月だけ体育の非常勤講師として採用された先生は、女子と話す時、照れ笑いするところが可愛くて、年上の人へのあこがれみたいなのもあってか、すぐに夢中になった。 当時、少しでも距離を縮めたくて、姑息にも「先生」とは呼ばす、名前で呼んでいた。 「章介さん」と。 当時、大学を卒業したばかりだった章介さんは、まだ詰めが甘くて、「お願い!」を何度も言ったら、住所も電話番号も教えてくれた。 それで一方的に電話をしまくって、休日にはドライブにも連れて行ってもらった。 きっと今だったら大問題。 わたしが卒業して、こっちから電話をしなくなったら疎遠になって、わたしも大学の先輩と付き合ったり、失恋したり、章介さんのことなんてすっかり忘れてた。 それでも電話番号は削除していなかったから、ふとひとりになった時、なんとなく電話をかけてみた。最後に話してから何年も経っていたし、「まだ同じ番号のままとは限らないよね」、なんて思いながら。 予想に反して、番号はそのままで、久しぶりに他愛もない話をして、飲みに行く約束をした。 昔のことにも、現在(いま)のことにもうまく触れないような会話だったけれど、「ああ、やっぱり章介さんはタイプだなぁ」って、恋心を再燃させて、またちょっとだけ電話をするようになったりした。 でも、またその内、新しい恋をして、章介さんのことは忘れてしまった。 章介さんは、そんな風に、何年も、ただ、時々思い出したように好きになる(ひと)だった。 いつものように、会う約束をして、飲みに行った日、めずらしく章介さんの方から、彼女と別れたばかりだという話をしてきた。彼女の方が、いつまでも非常勤講師でしかない章介さんの将来に不安を感じた、というのが別れた理由だと言っていた。 帰り際、「もうちょっと飲もうか」、って話になって、お店も閉まる時間だったから、章介さんの家に行った。 そんなに酔っていなかったから、言われた言葉を覚えている。 「ちょっとだけさわらせて」 嫌じゃない。だってその時は好きだったから。 「いいよ」 章介さんはすぐにブラのホックをはずして、直接さわってきた。 それからはあっという間で、すぐにわたしの上に覆いかぶさってきた章介さんは、まるで別人のようだった。 嘘でしょ… それが本当に本心からの気持ちだった。 章介さんにあこがれていた高校生の頃、こういうことをする日が来るなんて考えもしなかった。 経験が少ないわけじゃない。 章介さんのことは嫌いじゃない。好き…だけど… でも、何も知らなかったあの頃とは違うから、わかってしまった。 なんだ、ただ女を抱きたいだけか。 だから、その最中も「早く終わんないかな」って冷静な自分がいた。 次の日、朝起きてすぐに「やらせて」って言われた時には、もうどうでもよくなっていた。 もう二度とこの(ひと)を好きになることはない。 別れてすぐに電話番号を削除した。 わたしだって寂しい時に利用してたんだから、お互い様なのはわかってる。 ただ、ほんの少しだけでいいから、嘘でもいいから、優しくして欲しかった。 それからしばらくして、教師になった友達から、「そう言えば、あんたが高校の頃夢中だったあの先生、工業高校の体育教師になってるよ」と教えられた。今は正規雇用となって、バレー部の顧問をやっている、と。 今、目の前にいる章介さんは、「工業高校バレー部」と書かれた大きなバッグを持った、ジャージ姿の学生達に囲まれている。 友達から聞いた通り、バレー部の顧問をやっているようだった。 7年ぶりに目にする章介さんの顔は少し老けていた。まぁ、それはお互い様なんだけど。 わたしは、生徒たちの真ん中で笑っているところに近づいた。 「お久しぶり、章介さん」 わざと名前で呼んだ。 生徒たちに聞かせるために。 「どちらさまですか?」 「ずっとバレー、続けてたんですね」 わたしのことを忘れていて欲しい。 「わたしのこと覚えてないんですか?」 「こっちは覚えているのに」、そんな残念そうな顔をしてみせる。 でも、あなたがわたしを思い出すようなヒントは絶対にあげない。 あの日あなたが抱いた、わたしの面影なんてもうないから、そんなにじっと顔を見てもわからないよ。 わたしの見たいのは、あなたの困った顔。 「すみません。どこで会いましたか?」 「もう、いいです。さようなら」 後ろで生徒たちがざわつく声が心地いい。 少しくらい困ればいいんだ。 あの日わたしは、あなたを失ったんだから。
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