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 一人の少年が、其処に居た。其処に自分が在る、と言う事が分からなかった。『存在する』と言う感覚が分からなかったのだ。ただ分かった事と言えば、眼前に疎らに散らばっていた黄金の光がとても綺麗だったと言う事だ。どうしてだろう、儚くて切なかった。暫くの間、ずっとその光を見ていた。その光が何か、自分は知っている。自分の事を知るよりも早く、それが何であるかを知っていた――星だ。混沌の闇に散らばる小さな光は、儚くて切ない、優しい星だ。其れを愛する為に、自分は其処に在るのだ。程なくして、少年は自分が生命体である事を知る。あるか分からない手足の感覚を探るように、動いてみる。そこでようやっと呼吸している身体に気付いて、おもむろにそれを持ち上げる。酷く重たくて、ぱたり、と一度それを諦めた。  瞬く。その度に星が、少年と同じようにキラキラと瞬く。身体を起こす代わりに、手を伸ばす。小さな幼い手が見えた。それが自分の手であるという自覚は殆どなかった。また重さに負けて、ぱたり、と手を落とした。不意に、一つの小さな星が降ってきた。其処から、此処へ。闇の上から、少年の許へ。近づいてきた黄金の光が、眼球を突き刺す。あまりの眩しさに頭痛を感じて、それが身体の芯を伝わって全身に響く。喉の奥から、極々僅かな誰かの声が聞こえた。そんな誰かを労わるかのように近付いてきた星が少し勢いを緩めてから、恐る恐る、ゆっくりと降ってくる。ふわ、と頬に触れたそれは、熱だ。淡い優しい光からは信じられない程に熱い。その姿を追うと、世界が揺れた。  じわじわと全身に走り広がる熱に、少年は自分を自覚する。星の鼓動に、自分の鼓動が共鳴する。ゆっくりと瞳を開いて、星と呼吸を合わせて――ふ、と今度は驚くほど軽い力で身体を持ち上げられた。それを喜んでいるのだろうか、一粒の星が少年の周りをぐるりと回っては、ふわ、と闇のベットへ戻って行った。視線でそれを見送っては、少年は自分の手足を見下ろす。動かし方は、多分知っている。感覚と直感に任せて、寝そべっていたそこから身を放った。バランスを崩しかけた衝撃で足腰の感覚を思い出して、両の足で立つ。両足に腰を乗せて、更に胴体、胸、肩、首、頭の順番で乗せていく。ぷら、と揺れた両腕と両手を暫く見下ろしていた。  何を考える訳でもなく、歩き出した。当てがある訳でもなく彷徨うように……いや、違う。身体の動かし方を思い出すように少年は歩いて、走って、跳んで、一人駆けていく。知っている。だけれど、まだ何も知らない。不意にぴたりと足を止めては、辺りを見渡す。其処は、何処だろう?広くはない、四角い真っ黒な箱の中だ。温かい星の僅かな光だけが、上空に散らばっていた。ただそれだけの空間。何を目的に創られたのか分からない。さて、此処で自分は何をしていたのだろう。考えて、知る。眠っていたのだ。空間の中央にぽつんと作られた祭壇の上で、自分はずっと眠っていた。いつから眠っていたのだろう、眠る前の事が分からない。いや、自分は本当に眠っていたのだろうか、それも分からない。……いや、知っている。眠っていたのだ。ずっとずっと、酷く長い間、自分は此処で眠り続けていた。深い眠りの中、聞こえていた。温かくて優しい、星の子守歌。目を伏せて、そのメロディーを思い出す。  そこで聴覚の感覚を思い出した少年は、やっとその声を聞き取る。惹かれるように顔を上げれば、星が瞬いた。キラキラ、キラキラと優しく眩しく瞬く星が、少年に囁く。優しい愛しい声で、おはよう、と。すぅ、と息を吸う事を思い出す。声を出そうとして、喉の奥にそれが詰まって噎せ返る。くす、と星が微笑んだ気がした。幾度かそれを成そうとして失敗する少年を、星が少し急かすようにまた囁く。出ておいで、と。早く外へ出て、顔を見せて、と。何の事か分からないまま、それでも身体は動いた。知っている。星の許への行き方を、知っている。ゆっくりと歩いて、星の許へ行く為に道を辿る。真っ黒な四角い箱の一部を、小さな両手で押さえる。伝わってきた感触は硬くて、少し冷たくて、けれど軽かった。少し力を込めれば其処は小さく口を開いて――どうしてだろう。吹き込んできた風は、泣きたくなる程に優しくて切ない、懐かしい香りがした。す、と吸い込んだ優しい香りのする風は少年の胸を満たし、全身を巡り、後ろ髪を靡かせながら首筋を通り抜けた。  世界が少しだけ、大きく広がった。瞬く目が少し、見開かれたのだ。吸い込まれるように、外に出た。大きくて広い湖の上に、其処はぽっかりと浮かんでいた。四方に果てまで広がる湖に、星が散らばっていた。湖の中に在るのではない、上空で輝く星が湖という鏡に映り込んでいるのだ。吹き抜ける風に煽られて、湖に浮かぶ星が揺れる。世界を見渡す少年の瞳が、輝く。キラキラ、キラキラとまるで星のように。美しい星の世界は、何処まで広がっているのだろう。高鳴る鼓動と、高まる熱を感じた。感情の名をまだ知らない少年の胸に、それが宿ったのだ。数多の星が、世界を巡る。その行き先を知りたくて、少年は惹かれるように走り出した。世界の果てにまで広がる、星を探して。  ◇ ◇ ◇  星は少年になんでも教えてくれた。そして少年は、それを全て知っていた。元々少年の中に在ったそれを、星が軽く突いて思い出させる。ただそれだけの話だ。少年は知っている。身体の動かし方、五感の感じ方、喋り方、そして自分という存在。自分は星を愛し護る為に生まれてきた。自分はそう言う風に、星に創られたのだ。少年はそれを知っていて、だけれど、だからこそ少し違う事に気付いた。知っているそれと、何かが違う。些細な違いのようで、けれど決定的に違う。自分の中に刻まれたそれが、違う、と言うのだ。足らない。何かが明らかに足らない。この世界には星が満ちて居るのに、何かが絶対的に足らない。降り注ぐ星を見つめて、傍にやってきた星に手を伸ばす。どうしてだろう、酷く寂しい。優しい光はこんなにも胸を満たしてくれるのに、けれどぽっかりと空いたままの穴は埋めてくれない。 「星と共に在り、共に生き、これを愛し護る」  見つからない何かを探し求めるように、呟く。まるで星の子守歌を口遊むように、優しく。それが自分の存在意義であり、行動原理である事を少年は知っている。だけれど、思い出せない。足らないそれが何かを星に問いかけても、星は答えない。他の何ににでも答えてくれる星は、答えてくれない。 「継承者」  故に少年は、無意識下でその答えに辿り着く。初めて口にした言葉なのに、酷く馴染んだ。さながら恋人の名を呼んだかのような愛しさが胸を満たす。ぽっかりと空いていた心の穴が、一瞬だけ埋まった。そっと触れていた星から視線を逸らして、ぐるりと世界を見渡す。世界中に散らばる星に、眩暈がした。 「星と継承者と共に在り、共に生き、これを愛し護り――決して、裏切るな」  星は、少年をそう創った。そう、其れが足らない。少年が共に在り、共に生き、愛し護り、決して裏切ってはならない其れが。少年が傍に在るべき存在、この世界に在るべき存在、星と共に在るべき存在が、此処にはない。ないのだ、何処にも。 「何処に、在るの?」  星に問う。星は答えない。沈黙する。まるでそれを隠すかのように、あるいは逃げるかのように。どうして答えてくれないのか小首を傾げて、問う。星は答えない。沈黙する。ただ、瞬きを繰り返して。 「いつになったら、帰ってくるの?」  問う。星に。答えない。星は。沈黙する。星に。答えない。問う。星は――沈黙の星の世界で、少年は独りだった。星の満ちる世界は、空っぽだった。星が満たしてくれる胸は、ぽっかりと穴が空いていた。虚しくて、寂しくて。そんな孤独と一緒に膝を抱えて、少年は永い時を独り過ごした。満たされない、埋まらない心の穴を抱えたまま。少年は、独りだった。ずっと、ずっと、ずっと……いつから独りだったのだろうか。分からない。生まれた時から独りだったのだろうか。分からない。眠っていた間に、独りになったのだろうか。分からない。いや、少年は知っている。自分と同じように星に創られた存在が在った事。見た事は無い、だが知っている。 「継承者」  確かにその存在は、この世界に在ったと言う事。これを愛し、護り、傍に在り、共に在らなければ。孤独と虚空と膝を抱く両腕に目元を埋めて、混沌の中を彷徨う。心を焦がす、誰かを求めて。 「何処……?何処に居るの……?」  答えない。星は、誰かは、混沌は沈黙する。それが寂しくて、哀しくて、苦しくて。だけれど溢れる愛しさが満たされない胸を焼き焦がして、ぽっかりと空いたままの穴を広げていく。その奥に広がる虚空から、空虚が大きな口を開けて少年を飲み込んでいく。深く、深く、深く――少年は、久遠の時を孤独に在り続けた。目を伏せて、眠り続けていた時のように、混沌の中、独り。永い時の中、混沌で独り在り続ける少年はいつしか、その混沌を深く吸い込んでいった。星の黄金を吸い込んでも、溶け込んで消えていくほどの深くて濃い混沌は、どうしてだろう安心した。そして其れは、いつだったろう。自分の中に広がる混沌に、愛して止まない星を宿したいとそう思った。満たされないまま空虚が広がり続けて其処を食い荒らした虚無に、一粒の星を、愛して護るべき星を、いや、違う。 「僕の、僕だけの、星を」  少年は数多の星を振り払って、星を探す旅に出た。長い、永い、久遠の時をまた辿って。混沌の世界を彷徨いながら、黒い波を掻き分けながら、藻掻いて足掻きながら、星を求めて。混沌は怖くなかった。孤独も怖くなかった。だけど、あまりにも星が恋しくて、愛しくて。そして少年は、見つける。混沌の世界の果て、一点で輝く星を。一目見た時、それが星だと分からなかった。少年が見た事のある星は、星でありながら星ではなかったのだ。そう、例えるのであれば残像だ。見た事のない星は、綺麗だった。眩しくて、輝かしくて、優しくて、温かくて。見ているだけで、ぽっかりと空いた心が埋まっていくのを感じた。全身が衝撃に震えた。感じた事のない高鳴る鼓動と高まる熱が呼吸を乱して、感情の逆流を起こす。嗚呼、そうだ。どうしてこの星が探し求めていたものだと、思い出せなかったのだろう。どうして、どうして。 「其処は、何処?」  あまねく星の光と加護を受けしその世界は、何処だろう。其処に求めて止まない誰かが、在るのだろうか?星が瞬く。釣られて瞬くと、ふ、とようやっとその光に気付く。星とは違う、別の二種類の光。星の黄金の光と入り交じる、赤い光と青い光。三つの光と加護を受ける世界は、何なのだろう?触れようと手を伸ばして、知る。知らなかった事を、知る。気付く。分かる。理解する。星と継承者と共に在り、共に生き、これを愛し護り、決して裏切ってはならない。少年をそう創った星が、継承者が、そこに在る。けれど、だけれど――忘れている。  少年が傍に在るべき星と継承者は、少年の存在を忘れていた。あまねく星の光を浴びて、加護を受けて。幸せそうに笑う誰かは、少年を忘れている。いいや、違う。知らない。誰かは、少年の事など知らない。少年が誰かを知らないのと同じように、誰かも、星も、少年も、誰も何も分からない、知らない。埋まっていたはずの心に極僅かな穴が出来て、瞬く間に呆気なく、ぽっかりと穴が出来ていく。釣られて自分の胸元を見下ろして、指先で押さえる。空虚が、孤独が其処を食い荒らし、虚無を吐き出す。いや。虚無ではない別の何かを吐き出す。星と誰かを愛して止まない『慈愛』と、それと同じくらいの『嫉妬』だ。  それらをまとめて飲み込もうとした身体が、咄嗟に奥歯を噛み締める。胸から溢れるそれが、逆流を起こす。堪らずに吐き出しそうになって、身を縮めて口元を掌で抑え込む。けれど抑え込もうとしたそれが、本当に胸を焼いた。ジリ、と押さえていた胸元に穴が空く。心に出来ていた穴が、身体にまで到達したかのように。どろりとした何かが指先を、掌を濡らした。粘性のあるそれは、見た事のある色をしていた。少年が長く眠っていた、真っ黒な箱の色。少年が目を伏せて何かを求めていた、混沌の色。深い深い憎愛に身体が震えて、その度に胸元からそれは溢れてきた。どろどろ、どろどろと。 「……――っ、」  幾度かそれを抑え込んで飲み込もうとして――叶わず少年が吐き出したそれは、『嘆きの咆哮』だった。
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