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 その『咆哮』が慈愛と嫉妬の混濁する嘆きであったと知る者は、後にも先にもこの少年自身だけに限られるだろう。あるいは後に何処かでこの『物語』が誰かの手によって綴られたとすれば、それを読んだ誰かに限る。だがこの『咆哮』に秘められた本質は、きっと誰にも分からない。誰かがこの『物語』が綴ったとしても、その誰かさえも少年の本質は知り得ないだろうから。だがその『咆哮』がこの世界にどんな事を及ぼしたのかは、後に綴られる歴史書が必ず語り継ぐ事だろう。遥か遠い場所から響いたはずの『咆哮』は、この世界に住まう殆どの者が感じた。聞き取ることが出来た者は極々限られたが、感じた者は多かった。そしてそれ以上に、『咆哮』によって生じた天変地異を目の当たりにした者は多かった。太陽と共に大地が消え、月と共に海が割れ、星と共に空が堕ちた。世界全体を包んだ『咆哮』は、たったそれだけでこの世界を滅亡させたのだ。……いや、少し違う。確かに滅びはしたが、そこに住まう生命全てが消えた訳ではない。いつだったか頭に叩き込まれた歴史を脳裏に思い浮かべては、少女はおもむろに自身の手のひらを見下ろした。 「(こうして今私という個体が存在していると言うことは、少なくとも人間は滅んでいない)」  あくまで頭に叩き込まれた歴史が正しいものであればの話だが、それを確認する術はない。傷だらけの手のひらは汚れていて、手首を縛る鎖は重い。重力に従ってぱたりと手のひらを落とせば、じゃら、と合わせて鎖が鳴いた。そうして今日も、ぼうっと真っ黒な空を見上げる。狭いこの空間に唯一存在する、乱雑に掘られた穴。ここに収納された少女が死なないよう、最低限の酸素を確保するために掘られたものだ。その昔、空は綺麗な青色あるいは水色をしていたと言う。『咆哮』によって空から光が失われたせいで、それが見えなくなったと言う。……ふる、と反射で震えた身体を抱き寄せた。 「(……今夜はいつもより冷えるな)」  光だけではない、熱もだ。かつての世界では太陽が地上を照らし、一日中その熱が在ったと言う。夜と呼ばれる時刻……太陽が沈み、代わりに月が世界を照らし、星が瞬いていた時間でさえ、人々が凍えることはなかったと言う。あるいは冬と呼ばれた季節でさえも――それもこれも、無い。存在した証明が残っているのかどうかさえ、少女は知らない。少なくとも少女がこの狭い空間に放り込まれたその日には、もう既に無かったものだ。少女に在るのはこの狭い空間と、ぽっかりと空いた穴と、その先に見える混沌の虚だけで――膝を抱えて、眠る。そうして時を流し捨てれば、やがて足音が響き出す。それを合図に少女は目を覚ます。そう作られたのだ。それまでは目を伏せて、じっと此処を動かない。そう、作られたのだから。 「……――……?」  ふ、と聞きなれない音に少女は目を覚ました。足音ではない、それ以上に激しいなにか……破壊音?首を捻って辺りを見渡すけど、この空間には何も無い。時刻を数える時計の類も無いから、正しい時間も分からない。かつては太陽や月、星の位置で時間や方角が分かったと言うが、本当なのだろうか――ふわり、と唯一の虚の先から風が吹き込んできた。微かに聞こえたのは、靴底がそこと擦れ合った音か。 『そこ、動くなよ』  初めて聞いた誰かの声に鼓膜が弾け揺れ、合わせて思わず瞬いた一瞬。警戒から反射で押し広げられていた視界に、光が乱反射した。あまりの眩しさに眼球に痛みを感じて、思わず瞼を下ろし閉じた。それとほぼ同時に聞こえたのは何かが崩れ落ちる音であり、さらにこれが砕け散る音がワンテンポ遅れて聞こえてきた。光はすぐに止み、これに合わせて恐る恐る目を開く。瓦礫だ。すぐ認識したのは瓦礫の山であり、何事かと顔を上げて辺りを見渡す。少女の周りにだけ小さな瓦礫の山が連なっており、けれど崩れた衝撃で舞い上がる砂埃のひとつさえ少女のもとには辿り着かない。結界の類だとすぐに理解するも、それ以外は何も理解出来なかった。一体、何が起きているのだろう。そんな少女のすぐ前、小さな瓦礫の山を飛び越えた先に影が走る。見えたのは綺麗な靴先と――混沌の中で光り輝く、純白の翼。汚れ一つ知らないそれは柔らかく、けれど他者を寄せ付けない荘厳さを感じた。訳も分からず、全身が震え上がった。見たことのない美しい翼に対する感動か、それとも恐怖か。その中心点に見えたのは、混沌に溶け入りそうな漆黒の髪と、その下で砂埃に眇められた藍色の瞳だ。誰かがゆっくりと口元を舞う砂埃を、持ち上げた手の甲で払う。動きに合わせて淡い光を放つ何かがそこで反射し――藍の瞳に真っ直ぐに射抜かれて、呼吸が止まった。 「……あー……」  一度開かれた口は閉ざされた。響いた声は恐らく男に分類されるだろう、決して高くないが低すぎる事もない。心地よい程々の低さを持った声は、けれど青年と言うより少年に見える彼には少し見合っていない気もした。そうして少年は二度、三度と口の開閉を繰り返しながら、くしゃり、と黒い後ろ髪を掻き……やがて少々面倒くさそうに息を吐き出すと、一歩、踏み出す。崩れ落ちた小さな瓦礫を越えようとして、惜しい、足らない。結果として少年は瓦礫の山に足を乗せる事で上体を少女に近づけ、そうっと右手を伸ばした。 「……立てるか?」  その動きに合わせて今もなお右手で輝く何かと、その背に宿る翼が乱反射を引き起こすものだから、少女はその光から眼球を護るために目を細めた。困惑を隠せないままゆっくりと少年の指先と顔を交互に見やる少女を促すように、少年がさらに上体を寄せて手を伸ばし――びくりとこれに身を震わせた少女が、今度は素早く少年の手を取った。と、全身が強い浮遊感に包まれて少女はそこから飛び立った。まるで一瞬、空を飛んだような――そんな気がしただけで、ガシャン、と次の瞬間にはけたたましく生々しい鉄の音が響いた。少女の手足を縛る鎖と、動きを制する重りの音だ。途端、その音を止ませようと少女は手を放して両手足の鎖の動きを止めるよう限界まで引っ張った。そんなことをすれば縛られている自分の手足が痛むだろうに、構うどころか痛がる様子もなく少女は無表情のままその場でぴたりと動きを止めた。案の定だと理解した瞬間、少年は思わず舌打ちをしていた。これに少女の睫毛が微かに震えたが、身を縮めて顔を俯かせていたために少女の顔が見えなかった少年が知る由もない。  その感情をぶつけるべきは少女じゃないだろう、と少年は舌打ちした事を後悔しながら深く息を吸い込んで吐き出す。改めてそこから動こうとしない少女を見下ろし、そっとしゃがみ込んだ。顔は見えない。少女が顔を上げないからだ。……直前までそこに在ったはずの瓦礫がないことに気づいたらしい、視線は動いていたが。手を掴んだ瞬間に此方に戻ってきたのだから当たり前なのだが、まぁ、普通は驚くことだ。そんな事を考えながら、ふと長い黒髪に隠れていた首元に気づく。そこに首輪が嵌められていると分かっていてしゃがみ込んだのだが、しかしそれは実際に間近で見ると想像以上に不快だった。傷だらけだ。首輪を外さなくても分かるほどに、重く固いそれは首に食い込んでおり、繰り返し出血したことが分かるほどに跡が残っていた。思わず指先を伸ばしかけて、止まる。恐らく、この手のものは――代わりになる物を探すこと、二呼吸。ああ、と少年は数日前に巻かれた左腕の包帯を思い出して、袖を捲った。別に出血した訳でもないのに大袈裟に巻かれたものだから汚くはないし、むしろ綺麗なままだ。これならまぁ、『そう』見えるだろう。力任せに結び目を解き、巻き取った包帯を少女に寄せる。 「……音がうるさいから、手足のは外して、首のはこれに替えるぞ」  思えば聞いているのかいないのか分からない少女にそう声をかけて、待つこと二呼吸。ちらりと此方を見上げた漆黒の瞳はやはり困惑したままだったが、これを了承するように小さく頷いた。のめり気味に、少年はまず首輪を指先で弾いた。軽いはずの衝撃はそれだけで首輪を弾き飛ばし、少女の遥か後方にまで吹っ飛ばした。ガシャン、と再度響いたけたたましい音を聞き捨てながら、少年は手早く少女の首元に包帯を巻いた。途中、髪が邪魔だと言えば少女は少し慌てた様子で自身の髪を掴み上げた。苦しくない程度にこれを巻き結び終えると同時に少年は立ち上がり、両足首に嵌められていた鎖と、さらに大分遅れておずおずと下ろされた両手首に嵌められていたそれを、首輪と同じく指で軽く弾き飛ばした。 「立てるよな。悪いけどちょっと、ついて来てくれるか」  再三響いた激しい音にはどんな鈍感でも気づくだろう、部屋の外から響いた自分の名を呼ぶ声を聞いた少年は早々に立ち上がると少女に言いながら踵を返した。これを慌てて追いかけるように少女はワンテンポ遅れてから立ち上がり、駆け出す。その途中で少年が軽く持ち上げた右手を左方へ振るうと、背に宿っていた翼が消える。飛ぶ時はともかく、それ以外の時は存外、邪魔なのだ。特に歩く時は誰かとすれ違う時にぶつかる事が多い。下手に感覚もあるから少年はこれを嫌い――ふ、と翼が放つ光が消えた事で少女はようやっと別の光に気づく。乱雑に掘られた穴ではなく、綺麗に整えられた窓から差し込む光は一体なんの光だろう。 「あ。おいフェルト、なんか物凄い音が聞こえたけど……っておい、おい!せめて聞――うわっ」  その答えを確認する間もなく少年が部屋の扉を開けると、声をかけてきた一人の青年に応える事なくそのまま左折した。さらにこれを少女が黙って追いかければ、青年は驚きから声を漏らし、困惑した様子を見せてから早足で少年との距離を縮めた。背丈の高い青年はその体格に見合った大剣を背負っており、けれど一方で見合わない穏やかな顔は広義に言って好青年と言って違いないだろう。爽やかな水色の短髪の下で瞬いた檸檬色の瞳はどちらかと言えば柔らかく、フェルト、と青年が呼んだ少年の藍色の瞳の方が鋭い印象を受けるだろう。綺麗に整えられた廊下に灯された淡い光に少し眩む視界で少女がこれを認識したが、結局どこを見れば良いのか分からなくて少年の背に視線を戻した。 「え、お、なん……なんで女の子?」 「用件は」 「いや聞いてるの俺な!?……戻り次第、来てくれってよ……」  一方で少年は繰り返し声をかけてくる青年をぎろりと睨み問う。これに青年は苦笑を浮かべながらも、随分と不機嫌らしい少年を察してこれ以上の追求を止め、要求通り用件を述べた。言われなくてもそのつもりだ、と少年はその言葉を鼻で笑い飛ばし、わざとらしく声量を上げた。 「悪いな、随分と懐かしいもの見つけたもんで、つい」  少し時間がかかってしまったと合わせて肩をすくめて見せれば、青年の檸檬色の瞳が訝しげに眇められると再度少女を見やった。視線は合わない、少女はただ黙々と少年の背を見つめて歩くだけだからだ。はて、昔の知り合いか何かだろうか? 「お前は……どうだろうな。ま、一度くらいは見た事あるかもな」 「? 流石に俺だって人間の女の子くらい何度も見た事あるが……?」 「馬鹿」  青年の思考を読んだ上で否定するように少年が言い放つが、さらに訝しげに顔を顰めて首を傾げた青年に容赦のない罵倒の言葉が飛んだ。違いないが、と再度苦笑を浮かべた青年は口を噤んだ。これ以上は何を言っても少年の気を乱してしまうと思ったからだ。そのまま歩く事、暫し。雑なノック……をすればまだ良かったものの、あろうことか少年は苛立つ気持ちを乗せたまま、たどり着いた一室の扉を押し開けた。流石にそれはないだろうと言わんばかりに青年が慌てて代わりに扉を叩き、言葉を急いで組み立てた。 「いッ――王子殿下、すいません、失礼します!?」 「!」  それらは殆ど間に合わず、室内にいたもう一人の少年――青年と呼ぶ年齢に少し近づきつつある程度だろうか?――がびくりと身を震わせては振り返ると、ぱ、と表情を明るくさせた。 「フェルト!戻ったか!」  二度、フェルトと呼ばれた少年はそれに短く生返事をしては、一方で青年に向けて片手をあげる。応えるように青年が身を正して足を止めた一方、少年らは互いの歩幅でその距離を縮めた。二人並ぶと背丈はほぼ同じ、けれど対照的な色合い――黒髪と藍色に対し、もう一人の少年は月白の髪に蒼色の瞳だ。身に纏っている衣服も上等なもので、なにより歩き方で分かる、恐らく上流階級者だ――『王子殿下』? 「悪い、ちょっと……――ん?」  ずっと少年の背中を見ていた少女の瞳が、蒼の瞳とぱちりと合う。正面から見ても分かる、酷く整った顔をしている少年が幾度か瞬いては、彼女は、と黒髪の少年へと視線を移す。これに黒髪の少年……フェルトは渾身の笑みを浮かべてみせると、これに少年と青年は凄まじい悪寒を感じ取って首の後ろを震わせた。 「喜べ、クルシェ……ああ、いや、王子殿下。――……奴隷を一人、保護して参りました」  しかしその笑みは一瞬の事で、けれど続いたフェルトの言葉に銀髪の少年、クルシェは彼の笑みよりも恐ろしく深い恐怖に腹の底が冷えたのを感じた。これを諌めるように深呼吸を一つ、二つ……三つ。たっぷりの時間をかけて平静を取り戻したクルシェは、その為に一度閉ざしていた瞼と口をそっと開いた。 「この非常事態に、何処のどいつだ?くそが」 「惜しい、本当にすごく惜しいです王子殿下、最後の最後だけでした」  努めて冷静に、そして真顔で言い放ったクルシェに対して、気持ちはよく分かるが口が悪い、と青年が実に惜しそうに顔を歪めた。自覚はあった為に、許せ、とクルシェが顔を歪めて額を押さえるも感じた目眩は思ったよりも強かったらしい、ふら、と身を揺らした。細い腰を受け止めたのは先ほど彼が立ち上がって離れたばかりの机であり、これに寄りかかったクルシェは足掻くように、冗談ではないよな、とフェルトに問う。俺が冗談を言う奴に見えるか、とフェルトが応え肩をすくめて見せれば、見えない、とクルシェと青年は声を揃えた。堪らない気持ちを深く長い溜息に乗せて吐き出すクルシェと、そう言うことかと納得する青年を交互に一瞥したフェルトは、最後になお沈黙を守る少女を肩越しに見やった。 「で、だ。どうこうする前にとりあえず食事と、先に風呂にでも入れてやった方が良いかと思うんだが」 「ああ、なるほど。そうか、そうだな……イリヤが適任か?」 「居るんならティルと二人が良いだろうな。今あいつら居るのか?」 「イリヤは居るが、ティル殿は微妙だな。テクス、すまないが二人を探して居れば呼んで来てくれ」 「了解」  フェルトの言葉に違いないとクルシェが納得しては、青年……テクスの名を呼ぶと彼はこれに逆らう事なく、直ぐに踵を返した。細かい言葉遣いがなっていないのはそちらではないか、とフェルトが尻目にテクスの背を見送っては、先ほどから少女の様子を伺うようにちらちらと視線を泳がせるクルシェに嘆息する。 「普通にしてやれ。……逆だったら嫌だろ、それを理解するかどうかはともかくとして」 「……そうだな、すまん。けどまさか本当に、そんなことがある、とは……」  無理もない。その感覚はいたって正常なもので、年相応のものだ。淡々とそう付け足したフェルトに対して、やはり見たことがあるのか、とクルシェが問う。これにフェルトは一瞬その数を数えかけて、止めると同時に肩をすくめて見せた。そうだよな、と分かりきっていた答えにクルシェは少し肩を落としては、一呼吸ほどの間を置いてから今度はちゃんと少女へと視線を移した。 「……参ったな。なんて声をかければ良いんだ?やっぱり、普通に挨拶からか?」 「止めとけ、この類は何がトリガーになってるか探りようがない。お前にとっての正解は、目を離さず刺激しないように距離を置いて逃げる、だな」  まるで危険な動物や魔物と運悪く鉢合わせた時のような対応だなと思ったが、恐らくまさにその通りだからこそフェルトはそう言ったのだろう。違いない、正しいことだ。だけれど正しい事が全て喜ばしい事かと問われれば、この世は否に満ちていて――ふ、とそれを思い出したフェルトが視線を投げて、少し気だるげに小首を傾げてみせた。 「そういやお前、俺になにか用があったんじゃなかったか?」 「え?……あっ!そうだったフェルト、実はシオル殿がっ」 「――ぁあ?」  言われてようやっと思い出したらしいクルシェは腰を預けていた机から身を持ち上げながら咄嗟に口走った直後、少し苛立ちが落ち着いた様子だったフェルトの気が酷く乱れたのを感じて口を噤んだ。第三者が『その名』を出す時は碌な事じゃないとフェルトの中では決まりきっている為だ。それにしても普段あまり感情を表に出さない彼が此処まで顔と声に不機嫌を出すのは珍しいと言うことは、もうクルシェも知っている事で――俺にキレられても困るんだが、と毎度の言葉を前置きした。
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