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もう随分とこうして寝ている。始まりは、年度末だった。脳卒中を起こして、病院へ運ばれた。それからようやく意識を取り戻して、今に至るまでぼうっとこのベッドの上で暮らしている。真っ白なものばかりに囲まれた世界。私のパジャマに薄い、水色の縞模様が入っている以外は、ここにほとんど色は無い。
コンコンと、戸が叩かれた。今戸を叩かれるまで、私には何の考えも存してはいなかった。ただ無為に時を消費するばかりで、時が流れているということさえ、忘れていたと言える。そうすると実質、私は今の今まで歳を食っていなかった。今戸を叩かれたことで、ようやく私の中の時が動き始めたのだ。それまでは静止画のように、私はこの白い世界の中にただ置かれていただけだった。
「どうぞ」と私はノックに受け応えた。
「失礼します」と言って人が入室してくる。
「先生」と改まった顔をしている眼鏡の彼は、先生と言うからに、私の生徒である。
「ああ、よく来たね」と歓迎してやる。
「失礼します」と面接試験でもやるかのようにぎこちなく、側にあった丸椅子に腰掛ける。実際、もう彼もそういった年なのだろう。社会へと適合しなくては、やっていけなくなる時期。あれだけ生意気で世間知らずであったはずの彼が、こうなるのだからちゃんちゃらおかしい。……同時に、世の中とは酷なものだとも思う。
「お身体大丈夫ですか?」と彼は丁重に尋ねる。
「ああ、もう何ともない。早く退院して、現場に復帰したいものだ」
「それは良かったです」と彼は表情一つ変えずに言う。これは大幅な減点である。面接官に与える心象、良くない。復調を喜ぶなら、ぎこちなくとも笑顔くらい見せるものだ。
「ダメだな」と私は親切に教えてあげた。
「はい?」
「大幅減点だ」
そう言うと、ようやく彼も苦笑いした。
「まさか、この期に及んでテストですか? やめてくださいよ」
「君の方から始めたんじゃないか。そんなに畏まってちゃ、まるで面接じゃないか」
彼は頭を掻き「つい、いつもの癖で」と思った通りのことを言った。
「昔とは大違いだ」
「ですね。先生には、ご迷惑をおかけしました」
正論で叱られて舌打ちしていたあの子どもと、同一の人物が発しているとは思えない言葉である。それだけに、感慨深い。生徒の成長を実感する時ほど、教師冥利に尽きることはないものだ。
「そうだな。あの時のストレスが、祟ったのかもな」
「勘弁してくださいよ」と彼は言う。私は朗らかに笑う。
「大分機嫌が良くなった。来てくれてありがとう」
「いえいえ。お見舞いに、これを」と言って彼がバスケットに入れて持ってきたのは、リンゴ一個であった。
「妙なものを」
「妙ですか?」
「いや。持参の仕方が、妙なのだ。バスケットに一つごろりというのは、斬新だ」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」と言うと、妙な空気になった。私は一つ咳払いをして「とにかく、ありがとう」と告げた。
「いえ。……では、これで」
「もう行くのか」
「ええ」
「ゆっくりしていけばいいのに」
これは本心であった。
「いえ。用は、済みましたので……」と言う。随分冷たい物言いじゃないか。「お前が帰るとまた具合が悪く……」とでもおどけようかと思ったが、そう考える間に彼は退出していた。
「失礼しました」と言った。律儀になったものだ。成長したのには違いないが、何だか寂しい気もするのであった。大抵の人は、遅かれ早かれああなるものなのだろうとも思った。それが良いことか悪いことか、といったことは判断しかねる。ただ生きのびていくには、良いことなのに違いなかった。だから、教育の在り方は、何も間違っちゃいない。
再度、ノックの音が鳴った。こう訪問客が連続するのも珍しい。私は「はい、どうぞ」と努めて明るく、次の客を迎え入れた。
その客は、幼児であった。そして良く良く見てみると、自分の娘であった。
「おお」と私は唸ると「こっちにおいで」と彼女を引き寄せた。彼女はにやにやとしながら、私の布団の上に乗った。そして、私に身を預けた。
「大きくなったな」
ガチャリと音がして、顔を上げてみると、後から母親が入ってきた。
「気分は?」
「良好だよ。久しぶりに会話もして、気分が良い。先刻訪れてきたのは——誰だったかな」
「眼鏡の青年とすれ違ったけど」
「ああ! そうだ。その子が、来ていたのだ」
「あの子とはどんな関係?」
「どんな? ——確か、彼は私を先生と呼んでいたね」
「あら。じゃあ知れてるわね」
母親はさっき青年が座っていたのと同じ所に腰を下ろした。
娘は暫くすると、どうやら私に興味を失って、「ママ」と母親の方に縋りついた。
「で?」と私は切り出した。
「何の用かな」
「用? 用事がなくちゃ、来ちゃいけないの?」
若い彼女は、素朴にそう問うた。同時に娘も、不思議そうな顔で私を見つめる。
「いや、決してそういうつもりで言ったんじゃないんだ。忘れてくれ」
「忘れられないわ。少し、傷ついたもの」
私は焦って「先の彼が、用が済んだらさっさと帰ると言ったんだ。それじゃあ用が無ければ、私などは見舞う義理もないのかと傷心していたところだったのだ。分かってくれ」と弁明した。彼女は訝しげな顔をして、「先の子の用っていうのは、何だったの?」と問う。問いながら横目に、バスケットに置かれた一つのリンゴを捉える。
「ああ……それだ。それを渡すと、もういいやという風に帰ったのだ」
「これを見て思い出した」と母親は閃いたように言った。娘に顎で合図すると、これまで無秩序な動きをしていた娘が途端、床に下り立って、とことこと歩いていく。それから荷物を開けて中身を探ると、ミカンを一個、掌に乗せて掲げた。
「何?」と私は覚えず漏らした。悪い冗談かとも口をつきそうになった。
母親は娘からミカンを受け取ると、何のつもりか一度私に持たせた。
「今は食べないよ」と言ってやると、再度受け取って、今度は丁度良いと言わんばかりにバスケットの中へと配置した。
「それじゃあ、元気でね」と立ち上がろうとするから、私は「おい、おい」と言って呼び止めねばならなくなった。
「用が無くなれば帰るなんてことはないと、そう言ったじゃないか」
「言ったかしら」と彼女は上向いてとぼける。
「もう少し、ゆっくりしていきなよ」
「……また来るわ」とだけ言って、二人は手を繋ぎ、扉を出ていった。
人が訪れ、短い時間を過ごし、果物だけが残されていく。それからも、訪問客は続いた。八十を過ぎてもまだしっかりしている私の母、結婚しごく一般的な家庭を持った姉、多少飲みに行ったことのある同僚、顔を合わせれば挨拶くらいするマンションの大家、少年の頃良く公園で出会い声をかけてきた鳩に餌をやるおじさん……彼らは皆、別々の果物を一つずつ置いていった。眼鏡の青年のリンゴに始まり、ミカン、ブドウ、ナシ、レモンにモモなんてのもいた。当然、バスケットは一杯になった。ようやく私は、妙だななどと考え始めた。
次にやってきたのは、大学生くらいの女子であった。「先生」と彼女は、私のことを呼んだ。初めの青年と、同じである。
「君は……」
「山崎です! お忘れですか?」
「ああ」と私は思い至った。
「山崎さんか。——今日は妙に、客が多いんだ」
「へええ。先生の人望の賜物ですよ」
「それから、そこに種々の果物を置いていくのだ。——君も、それが用事なのだろう?」
「果物、ですか?」
彼女は首を傾げた。
「すみません。気が利かなくて」
私は彼女のこの反応を大変嬉しく思った。
「良いんだ、良いんだ。皆が皆、果物を土産にするから、気味が悪かったんだ」
「果物どころか、お見舞いの品も何も持てなくて、申し訳ないです」
良いんだ、良いんだと私は繰り返した。
「それよりも、話をしてほしい」と私は本音を言った。
「はい。お話なら、いくらでもさせていただきますよ」
彼女は膝に手を置いて、にこやかに私へ笑いかけた。私は、頬を赤らめた。
「それじゃあ、初めに何の話をしようか」
「昔の話を、しませんか?」と彼女は提案する。
「良いだろう。昔の話か……一つ、君の思い出話を聞かせてくれ」
「そうですね……先生は、随分細かなことまで、厳しかったですね。私はよく掃除をサボっていて、怒られました」
「当然だ」
「ハハハ」と彼女は苦笑いした。
「それから、先生が一度だけ本気で怒鳴った時のことを覚えています。確か授業が始まっても、大分うるさかったから……」
「そんなこともまああるかな」
彼女と思い出話をしていると、心の休まる気持ちがした。懐かしい、感覚である。
「君自身の話は、もっと無かったかな」
私はそう問いかけた。
「私の話ですか? 嫌だな、もう。私は毎日のように、先生のところへ行って英語を教えてもらっていたじゃないですか」
「ああ、そうだったそうだった」
「あの日々の御恩は忘れません」
私は彼女の心持ちを嬉しく思った。そうそう、人は過去を振り返ってみて、初めてそのありがたみに気がつくものだと深く頷いた。私はそのことを、自分自身で、また他人においても何度も実感してきたのだ。
「ところで、」
彼女は途端に、調子を変えた。と同時に、白い部屋はシンと静まりかえった。
「先生は何故、入院されているんですか?」
——分からなかった。そんなことは、私には到底思い及びようのあるはずもなかった。分かっているのは、前の三月以来、脳の病気で倒れたということだけである。それからはこうした真っ白な世界に囲まれて、暮らし続けているのに違いなかった。
真っ白な世界は、段々と色を持ち始めた。それが、窓の外から夕陽の差し込んでくるせいだと気がついた。壁に私とベッドの形が、影となって縁取られていた。
慌てて脇を振り向いてみると、もうそこに彼女の姿は跡形も無かった。……先ほどまでは、「誰か」ここにいたはずである。果物すら、あれだけ積み上がっていたものが忽然と消えていた。ただ、バスケットだけは残っていた。
そもそもあの沢山の果実は、誰の持ってきたものであったろう。私は暫く考えた……が、ちっとも分からなかった。
コンコン、と病室の戸が叩かれたが、私は何とも応じずに、戸に対して背を向けていた。
「失礼しまあす」と言ったのは若い女の声であった。女はずかずかと私に歩み寄って、「点滴かえますねえ」とだけ言って作業を始めた。白ずくめの女であった。
「今日は一日、どうでしたかあ?」と片手間に女は聞いた。私は、どうも無かったと答えた。
「そうですかあ? たくさんお話をされていたように、見えましたけど」
私はふるふると首を振った。
「そうですか。……はい、終わりました。それじゃあ、お大事に」
女はカルテを胸に抱え作り笑いで会釈しながら、出ていった。
私は、この部屋にひとりである。
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