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プロローグ
「ねえ、結婚したい」
ひとり暮らし真っ只中みたいな部屋で
私は天井へ向けて吐き出した。
彼に直接言うのは、私ながらに恥ずかしい。
だから、天井へ。
聞こえないことを願いつつ、
聞こえることを望んで言った。
日常に溶け込んだその言葉を彼は無視したりしなかった。
困らせるって分かってた。
でも、どうしても言いたくなってしまった。
「そっかー」
彼は隣でぼんやりと呟いた。
それから急に立ち上がって、ひとこと。
「ルーズリーフある?」
彼は机にルーズリーフとシャーペンと定規を並べ、何やらを書き出した。
「えっ、何なに??」
「見てろってー」
彼は鼻歌うたって手を動かす。
曲は、私が好きなバンドのイントロ。
他の曲と混ざり合ってまるで違う曲だが。
なんとなく全体像が定まったであろうというとき、彼が左上に、へたくそな字を書いた。
『婚姻届』
私は思わず彼の方を見る。
彼はチロリと私の方を見て、ぷっと吹き出す。
「何その顔」
私は顔は、まるでぐしゃぐしゃだった。
その顔を省吾の胸に押し付け、抱きついた。
彼の細身ながらにがっちりした体が、指先から伝わってきた。
「ありがと!」
彼はゆっくり首を振った。
それからルーズリーフに書いた、手書きの婚姻届に、本物と同じように名前と住所と、家族構成まで記して、そして最後に判を押した。
その日から、水曜日の5時から8時。
私の家でだけ、私達は夫婦だった。
私の彼氏は俳優である。
彼の夢は『連ドラの出演』。
だから、結婚なんてできない。
まず、付き合うことも公にしてはいけない。
その夢が叶う、その予感がしたら、
私達は別れる約束だ。
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