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頭の中で、言いたいことを考えてみた。
はじめは感情が底からジワジワと。
ありがとう、すきだよ、すきだったよ、少しだけごめんね、嬉しかった、幸せだったよ……。
数え切れない感情が溢れてきたものだが、
殻のペットボトルみたいに、最後は何もでてこなかった。
「省吾、いままでありがと」
結局、残ったのは、省吾が出るドラマのセリフみたいなのだけだった。
「俺の方こそ、ごめんな」
「わがまま、聞いてくれてありがと」
「結婚、できなくてごめんな」
そこで会話がピタリと止まった。
その瞬間、ふと笑いがこみ上げた。
もっと、夜まで解き明かすもんだと思ってた。
お酒飲みながら2軒目、とか。
思い出話をして、そのまま付き合うことに、とか。
でも、案外こんなもんだった。
もう、言いたいことは何もなかった。
ああ、帰ろ。
「お会計、しとくね」
私はリュックを背負って立ち上がった。
省吾は私を見上げ、きゅっと目を細めた。
彼、最後まで泣かなかったな。
「じゃあね、ありがと」
私はレジへと足を進めはじめた。
そのとき、
「くるみ!」
私は嫌なほど素早く振り返った。
呼び止めてくれるの、待ってたのかもしれない。
そんな自分をひとり、心のなかで自嘲する。
省吾は立ち上がり、
眉を下手くそなハの字にしていた。
「……なんでもない」
「なにそれ」
私も自然と眉が下手くそなハの字になった。
「じゃあね。元夫」
「……じゃあな、元妻」
ふとお互いの口から小さな笑いが溢れた。
私達の距離、ざっと5メートル。
これから近寄ることもない。
これからは、遠ざかるばかりのふたりだけど、こんなふたりだからこんなに愛おしいのかもしれない。
今度こそ背を向けようとしたとき、ふと言い忘れていたことがあることに気づいた。
「あ」
「ん?」
「出演、おめでと」
その瞬間、決壊が崩れるみたいに省吾の顔がぐちゃっと歪んだ。
ひと粒の涙が彼の頬を這う。
演技以外で、心から涙を流す彼を、私は初めて見た。
私は胸をつまらせながら背を向け直す。
うん。ひどいやつだと思う。
泣いている彼をおいて帰るなんて。
でも、このまま駆け寄って抱きしめたとしても、
私はひどいやつだ。
結局、私達はひどいやつだ。
だから、背を向けようと思った。
帰ろう。
10メートル、11メートル、12メートル。
彼との距離は、どんどん広がる。
レジのお姉さんと目を合わせられなかった。
財布から適当に取り出したお札をばっとカウンターに乗せて、
「おつりいらないです」
と早口で言ってドアを開けた。
お姉さんの可愛い声が耳の裏から聞こえてきたが、それを無視して一歩を踏み出す。
すると、ドアの先で、
晴れびやかな空が視界を埋めた。
まるで、私達が別れたことを喜ぶみたいなその空を見ながら、少し自嘲する。
すっと鼻から空気を吸う。
「よし、帰ろう」
吐く息といっしょに声を出す。
私達は夫婦になれなかったけど、
夫婦以上に幸せだったと、自惚れるみたいに思っている。
別れたのが11月22日。
いい夫婦の日ってのが、やたらと鼻につくけれど。
50メートル、60メートル。
単位変わって、1キロ、2キロ。
スニーカーの紐を結ばぬまま走った。
もっと遠くに行ってやる。
涙で濡れて、
もうなんの曲かもわかんないような鼻歌を、
鼻先だけで歌いながら、その日は走った。
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