炎雪記

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   あいつが山の上の寺に来たのは、たしかあいつが十歳のときだった。何十人もいる寺娘の中に、ひとり、やせた栄養の悪い小娘が無駄にひとり、また増えた。あたしの最初の印象はそれだけだったよ。  ただ、なんというか、あいつは―― あいつにはやっぱり、少し変わったところがあった。  雨の日も雪の日も、毎朝、夜明け前の暗さの中で寺娘たちが食堂(じきどう)っていうでっかい建物の土間に集まり、そこにある大カマドを使って朝餉(あさげ)の煮炊きをやることになってるんだけど―― あいつは仕事が、ひどく遅かった。遅いっていうのは、だけど、トロくさくて仕事の覚えが悪いとか、そういうのとは真逆だったんだ。  何かにつけて、あいつは深く考える癖があった。ほかの七人くらいの寺娘たちが、眠そうに適当に松の木っ端と細い杉の枝の薪をそこにある三つの大カマドにぐいぐい投げ込んで、そのあと「焔堂(ほむらどう)」っていう離れた場所にある火の保管場所から、その日の係の娘が妙な形の香炉にのせて最初の火を運んでくる、それをただ眠そうに寒そうに待っている。そこの土間のすすけた壁にもたれたり、そこにしゃがんで小声でおしゃべりしたりしながら。  けど―― あいつはそういうのには加わらず。ひとりでじっと、カマドの中の薪をただずっと見ていた。あいつはずっと考えている。真剣に何かを考えているときのあいつの顔は―― ふだんよりさらに無表情にひきしまり。目だけが、やたらと光を放つ。ふだんのあいつの水晶めいた冷たい瞳が、碧瑪瑙(あおめのう)と、あとはなんだろう―― 月明りを宿した雪花銀鉱の鋭さ、かな。それが二重三重にあいつの瞳の上に不思議な形の紋様をつくって。それが流れて、瞳の上で音もなく輪になりおどりはじめる。でも。そういうのは、他の娘たちは見てさえもいなかった。見てもたぶん、あまりに繊細なその目の光の変化に、きっと気付くことはなかったんじゃないか。  でも。あたしは近くで見ていたよ。あたしは全部を、そばから見ていた。ちょっと変わった娘だな、って。あの日あのとき、興味を持ったよ。  で。そのあとあいつは、ひとり勝手に、薪の配置を組み替えた。下になっていた乾きの悪い大枝を、ぐいっと引いて取り出して。かわりに、火つけにつかう木っ端の枝を何本かさしこんで。まるで大切な宝石箱を扱うみたいな慎重な手つきで。薪の重なり具合と松材の木っ端の位置どりを、何度も変えて、動かして。そのあと最後に納得したのか、古油をしませた古布の切れ端を、木っ端の間にさしこんだ。あいつはそれから、「ふうっ」と息で、カマドのふちにたまった古い灰を吹き飛ばし――  だけどあたしには、あいつのやってることの意味。ぜんぶちゃんと、わかっていたよ。    火を迎える準備、だね。  あいつはなぜだか、最初の最初からよく知っていたんだ。あたしたち火の者たちが好む、最初のひとくちの木っ端の置き方。そのあとあたしが伸びあがり、舌をのばして舐めていく、その先にある最初の獲物までのいい距離を。あたしの炎が、いちばん楽にのびやかに大きくすばやく育っていける、そのための素材と、空気を含んだ広がりと。そういうの全部、あいつひとりがわかっていたよ。  やがてその朝の係の寺娘が、火付けの香炉をうすぐらい食堂に運び入れてくる。土間の高い天井で、光と影があやしく踊り、まじわって。やがてその火を手渡されたあいつは、何かに祈るような真面目さで、その火をカマドの中にしずかに放った。  そこからはほら、ぜんぶ、あたしの役目だよ。あたしは伸びる。あたしは伸ばす。あたしが舐める。あたしが噛みつく。食いちぎる。ばちばちと音をたてて、あたしはその大カマドの中のくらがりの隅々へ。手足をひろげて、舌ですべてを舐めていく。  あいつが当番のその日には―― あたしは愉快に、ぐんぐん踊れた。あたしは夜明け前の蒼よりも、もっと深く鋭い太古の遠い深淵の青を、誰にも気づかれないひそかさで、あたしの踊りに組み入れる。その深い深いおそろしく古い時をこえてここに届いたその青の舌は、あまりにもひそかに一瞬だけしかそこで動きを見せないのだから。不注意な娘らはそこにそんな色の奥行きと動きがあることなんて気付きもしない。もとより、気づくことなど無理なんだ。つづいて松材から水のように流れ出す細い煙の流れを、あたしはとらえ、その水煙を少しずつ炎の明るさに染め上げる。そう、そこでこそ、まさしく暗き無は有となり―― それまで命ないただの煙流だったそのものが―― 命ある火の輝きに姿を変える。その瞬間は、誰にもとらえることができない。あまりにしずかな炎の秘密――  けど。あいつはそれを、全部見ていた。瞬きすることも忘れて。あいつはすべてを、じっと見ていた。あたしのひそかな輝きの踊りが、あいつの瞳を流れる碧緑と金とに入りまじり、ぐるぐる、魔法めいた緻密さで。あたしの色とあいつの色が同時にひとつに爆発し、いくつもの虹色の細流となって、それを見つめるあいつの瞳の上をかけめぐる。  あらゆる色と光を知り尽くし、操ることを誇りにしているこのあたしが。  炎のあるじの、このあたしが、だ。  見とれた。    あたしが、見とれて、しまったんだよ。あいつの瞳の、その色に。  あいつもそして、あたしを見ていた。あいつはうっすら、笑みをうかべて、 ――きれい。  ひとこと、小さくささやいた。  あたしも笑って。嬉しくなって。思わずあいつに言ったんだ。あたしから誰かに声をかけるなんてこと、それこそもう、かれこれ何百年もなかったことだ。 ――おい。おまえ。 ―― …それは、つまり、わたしのこと?  あたしはあいつに手をのばし、あいつのほおにちらりと舌を這わせて言った。 ――そう。おまえさ。おまえの名前も、あたしはまだ知らないけれど。あたしと契約、したくない? ――けい…やく…? ――そうだ。おまえはあたしを、受け入れる。あたしもおまえを、受け入れる。そしたらきっと、楽しくなるぞ。おまえを何でも、助けてやるぞ。おまえはあたしを、何でも使え。おまえはあたしだ。あたしはおまえだ。どうだ? あたしとケイヤクするか?  あいつはじっと考えこんで。あたしがじっさい見るほど見るほどどんどん好きになる、炎の明かりに照らされたその不思議に光る二つの瞳を一瞬ふせて。そのあとまた、静かに視線をあたしに向けて。それから言ったよ。小さな声で。 ――ケイヤク、とかは、わからない。   でも。トモダチ、だったら。なってもいいよ。  トモダチ、か。うん。その言葉。あたしはあんがい、嫌いじゃないかな。トモダチ、トモダチ。  あたしは―― あたしと心が通って一緒に遊べる。心底げらげら一緒に笑える。そういうカタチを、ずっとずっと永遠に思える暗闇の中でさがしつづけてきたんだと。そのときはじめて、わかったよ。それがどれほど得難いもので。そこで手をのばせばそいつの頬にふれられる、その、無よりも短いそのそばから、そいつの瞳と、まなざしと、あたしの全部をそこで交わせることができるんだ。そいつはあたしのぜんぶをわかって。あたしはそいつの全部をもっとさらに知りたくて。  だから。だから。 ―ーよし、わかった。だったら今から、トモダチだ。  あたしたちは、これから、ずっと一緒だ。心も一緒だ。体も一緒だ。おまえはこれから、あたしになるんだ。あたしはこれから、おまえとずっと生きていく。おまえがいつかいなくなるまで。あたしがおまえのそのカタチ、ずっとこの手でまもってやるよ。だから。遊ぼう。一緒に遊ぼう。ずっとずっと。太古の闇が世界を残らず喰いつくし、おまえのカタチと未来がぜんぶ消えゆく、その、いちばん最後の時間まで。  踊ろう! 照らすよ。お前のことを!
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