炎雪記

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 たとえばあたしは、おぼえているよ。  あいつがあの山の上の寺に来て間もない――  あれは冬だな。そう。冬はじめだ。まだ雪は来ていなかった。  冬はじめの枯野の先をひとりで歩くあいつがふりかえる。  血色のよくないやせた横顔があたしの方を向き、左目だけで遠くのあたしを静かに見るんだ。  おかしな話だと、自分でも思うんだ。なぜならあたしは、いつもあいつのそばにいたから。あたしとあいつは、一厘以下の距離でいつもひとつに結ばれていたはずだから。そんなふうに、あいつからはなれて、遠くからあいつを呼び止める、とか。そんな場面は、ほとんどなかったはずなのに。  なのに。あたしがあいつを思い出すとき、必ず最初に浮かぶのが、あの冬初めの山の斜面、あの広い広い枯草の原っぱの夕暮れの場面だ。わずかにふりかえったあいつは、青色輝石よりもよく光る澄み切ったあの眼をほんの少しほそめて。それから唇の端だけで、そっと笑った。  そう。笑ったんだ。あの頃のあいつは、まだ、笑うということが、素直にそのままできていた。あたしはそういう、とてもしずかに、あたしのために笑ってくれたあいつのことがほんとうに大好きで。大好きすぎて。吐き出して呑み込んですべてを灰に変えてやりたいくらい好きで好きで泣きそうだった。  だからあたしは。まっすぐあいつのところに飛んでいって、そこであいつと踊ったんだ。  あいつは踊りなんてぜんぜんできやしないし興味もなかった。でも。あたしがあいつにまとわりついてはしゃいでムチャクチャやるものだから。あいつは困ったみたいな表情をその二つの瞳にうかべて。それでもあたしにあわせて、足を踏み足を踏み、枯草の原のただ中でくるりと体を翻しさえした。あたしはとっても嬉しくなって。心から愉快で。山向こうの空が夜の暗さと冴えわたる冬の星明かりを連れてくるそのときまで。二人でそこで、遊んだ。心ゆくまで踊った。あたしはあいつが大好きだった。食べたいくらいに大好きだった。あいつの心が好きだった。あいつの強さが好きだった。あいつの優しさが好きだった。あいつの全部が―― あたしはあたしのこのくだらない存在よりも、その千倍くらいは大好きだったんだ。
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