2人が本棚に入れています
本棚に追加
おみやげの袋を片手に、真のアパートに着いたときには、まだ夕方の四時過ぎだった。合鍵を差し込むなんて簡単なことも、なんどか失敗した。
あたしは、ふら、ふら、と短い廊下をふらつきながら歩いて、ワンルームの背の低いソファに、倒れ込んだ。
真はいない。いまはバイトの時間だ。六時過ぎには帰ってくるはずだけど。
小さくてボロくて、あたしが片づけてあげないとゴミだらけで、真のにおいが染みついてるこの部屋。もう二年近くつきあってる彼氏の部屋だけど、あたしにはよそよそしかった。けどあたしは、はじめて、帰ってきた、と思った。
電気をつけなくても、まだ明るい。ちら、ちら、と埃が舞っている。……こんなの、じっくりと見てみたこともなかったな。
埃なのに、ちょっときれいかも。埃って、ひらがなにすれば誇りとおなじだけど、なんか関係はあるのかな。
どうでもいいけど。
……なんだったんだろう。
天王寺公子。嫌な同僚。
公子さん。意外とひと懐っこいあのひと。
そして――コロ?
秘密、っていってもまだ、足りない気がする。
あたしにわかることはそんなにない。あたしは、頭がそんなによくない。
でも、感じることくらいならできるんだよ。
公子さんには悪いと思うけど。
――気持ち悪かった。
人間が犬のふりをするのは、だって、そう思っても仕方ないよ……。
あたしは、ぐるぐるぐるぐると、さっきのことを、繰り返し頭のなかで再生した。なんど再生しても、気持ち悪さはなくなるどころか増えていく。
ピーンポーンパーンポーン……。
自宅の自治体とは違う五時のチャイムで、われに返った。
ごはん……つくんなきゃ。真の家に来たときはあたしが料理をしなくちゃいけない。ちゃんとやらないと、真は怒る。暴れちゃうし、最後は光熱費とか水道代とかの話になっちゃう。あたしがお邪魔してるぶんそういう出費が増えるのに、あたしに要求しないんだから、家事くらいちゃんとやれって、いつもそう言う。
あたしは廊下にくっついている台所に立って、料理をはじめる。ありあわせだけど、真はお肉を食べてればご機嫌だから……。
……真とあたしは、これからどうなるんだろう。
あたしの収入なんてたいしたことないし、真は早いうちにもっと条件のいい仕事を探してフリーターやめるって言ってるけど、たぶんそれはつきあう前、真があたしを口説いていたころからそう言ってる。真は生活費のことを一円単位でいつもあたしに言うし、あたしは単純作業の単純労働をしてるから、稼いでいくのは難しいんだって。だから、家事をやれって。
優しいときには、優しいんだけど。大好きだよって言って、髪も撫でてくれるし。……夜は、やることやり終わると背中向けてすぐに寝ちゃうけど。
……暴力、ってほどじゃないと思うんだけど、ときどき叩かれたりするし。
あたしは、そんなに頭がよくないんだって真は言う。俺の言うことに従ってればぜんぶうまくいくんだって真は言う。
シュウウウ……。
「あっ」
お鍋が噴きこぼれていて、あわてて火を止めた。
……危ない。ふだんはさすがに、ここまで初歩的なミスはしないのに。
そんな感じで、いつもよりもさらに不器用だったけど、どうにか、野菜炒めとお味噌汁を仕上げた。野菜炒め、っていっても肉ばかりだ。そういう料理ってなんていうんだろ。真に訊いたら、たぶんまた馬鹿にされるしなあ。
ほかにも、食器洗ったり掃除機かけたりしているうちに、真が帰ってきた。あたしは、玄関で出迎える。
「おかえり」
真はあたしにコートを渡しながら、お鍋のなかを覗き込むようにして背伸びする。
「おっ。うまそうじゃーん」
あたしは、コートをハンガーにかけながら笑う。
「牛肉がたくさんあったから。もったいなかったし」
コートをかけて、お料理を出す準備をしようと台所の前にもういちど立ったら、唐突に、後ろから抱きしめられる。
「疲れたよー、美姫」
声はとても近くて。
……あたしは、このひとのにおいが、嫌いじゃないけど。
ぎゅっ、とその力は強まる。
「……いつも真はがんばってるもんね」
「そう言ってくれんのなんて美姫だけだ……みきぃー、好きだよー」
「あたしも、真のこと好き」
「ほんと?」
「ほんと」
そのまま、すこしのあいだ、キスをした。
そのあと、部屋に戻った真は、声を上げた。
「うーわっ、なんだよこれ。高級菓子じゃん」
説明しないし、報告しないし、なにも悟らせない。
……秘密というにも、大きすぎることだから。
「うん、そうなの。友だちの家にちょっと行って」
「へーえ。金持ちな友だちがいるんだな」
「食べていいよ。あたし、どうせあんこそんな好きじゃないし」
あたしは頭がよくないって真は言うし、じっさいそうだけど。
でも、真は、あたしが隠しごとできるってこと知らないんだろうな、とも思う。
あたしが料理をお皿に盛りつけているあいだ、部屋からはビリビリと包装紙を破る音がする。続いて、箱をパカリと開ける音――。
「えっ? はっ? う、うわっ、なんだ、なんだよこれっ……おい美姫、なんだよこれ! やべえんじゃないか、これ!」
「……え?」
慌てて真のそばにしゃがみ込んでみれば、そこには、ぱっかりと開いた老舗和菓子店の大きな詰め合わせがあった。
ただ、入っていたのはお菓子だけじゃなかった。
札束。それも、ぎっしりと。
あたしは思わず手で口を覆った。
そっか。
――口止めってことだったんだ。
「な、なんだよこれ……い、いいのか? こ、これ、おまえのか、俺らのものなのかよ。ってかほんものか? 偽札じゃねえよな、こ、こういうのって透かしたほうがいいのか? やべえ金じゃねえだろな? 変なやつとつきあってねえよな?」
「違う……」
変なやつ……だったけど。
「違うよ……そういうんじゃないよ。ねえ、真……」
公子さんに舐められたあたしの素足。
あのひとの舌、ぜんぜん、滑らかじゃなかった。
そんなこと知って……どうなるっていうんだろう。あのひとは、あたしの……同僚、なのに。
「真、あのね……世のなかって、変なこと、たくさんあるの……」
「んなことよりさ、どうすんだこの金。自由に使っていいのか?」
「わかんない……」
「わかんない、じゃなくてさ! 頼むよ、だいじなときなんだからしっかりしろよ! これ何年遊んで暮らせんだよ? なあ! ……これさあ、数えてみていいか?」
あたしがなにか言う前に、真は札束に飛びつくようにして手を伸ばした。
あたしはそんな真を見て、思った。
……気持ち悪いなあ。
公子さんも、そうだったけど。
そっか、このひとも、そうなんだなあ……。
あたしも、札束に手を伸ばす。ゆっくりと。
「おっ? なんだ? 俺たちの未来に貢献する気になったか?」
あたしは、微笑んだ。
そして――札束で、思いっきりその頬を叩いてやった。
わかる。もう、わかってる。
あたしはこのあと怒鳴られる。真の眉間は、すぐにぎゅっと歪むはず。
情緒不安定とか、ヒステリーとか……なんだって、どうでも、いいんだけど……。
自分のなかに涙の芽が生まれている。
おかしいっていうけれど。
真に、こんな男に、こんなところに、すがりつくしかないあたしだってきっとおかしいんだよね。
だからもしかして、あたしも、気持ち悪いのかもしれないなって――あたしは、はじめてそう思った。
最初のコメントを投稿しよう!