第一章 あの子たちのすべて

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 おみやげの袋を片手に、真のアパートに着いたときには、まだ夕方の四時過ぎだった。合鍵を差し込むなんて簡単なことも、なんどか失敗した。  あたしは、ふら、ふら、と短い廊下をふらつきながら歩いて、ワンルームの背の低いソファに、倒れ込んだ。  (まこと)はいない。いまはバイトの時間だ。六時過ぎには帰ってくるはずだけど。  小さくてボロくて、あたしが片づけてあげないとゴミだらけで、真のにおいが染みついてるこの部屋。もう二年近くつきあってる彼氏の部屋だけど、あたしにはよそよそしかった。けどあたしは、はじめて、帰ってきた、と思った。  電気をつけなくても、まだ明るい。ちら、ちら、と埃が舞っている。……こんなの、じっくりと見てみたこともなかったな。  埃なのに、ちょっときれいかも。埃って、ひらがなにすれば誇りとおなじだけど、なんか関係はあるのかな。  どうでもいいけど。  ……なんだったんだろう。  天王寺公子。嫌な同僚。  公子さん。意外とひと懐っこいあのひと。  そして――コロ?  秘密、っていってもまだ、足りない気がする。  あたしにわかることはそんなにない。あたしは、頭がそんなによくない。  でも、感じることくらいならできるんだよ。  公子さんには悪いと思うけど。  ――気持ち悪かった。  人間が犬のふりをするのは、だって、そう思っても仕方ないよ……。  あたしは、ぐるぐるぐるぐると、さっきのことを、繰り返し頭のなかで再生した。なんど再生しても、気持ち悪さはなくなるどころか増えていく。  ピーンポーンパーンポーン……。  自宅の自治体とは違う五時のチャイムで、われに返った。  ごはん……つくんなきゃ。真の家に来たときはあたしが料理をしなくちゃいけない。ちゃんとやらないと、真は怒る。暴れちゃうし、最後は光熱費とか水道代とかの話になっちゃう。あたしがお邪魔してるぶんそういう出費が増えるのに、あたしに要求しないんだから、家事くらいちゃんとやれって、いつもそう言う。  あたしは廊下にくっついている台所に立って、料理をはじめる。ありあわせだけど、真はお肉を食べてればご機嫌だから……。  ……真とあたしは、これからどうなるんだろう。  あたしの収入なんてたいしたことないし、真は早いうちにもっと条件のいい仕事を探してフリーターやめるって言ってるけど、たぶんそれはつきあう前、真があたしを口説いていたころからそう言ってる。真は生活費のことを一円単位でいつもあたしに言うし、あたしは単純作業の単純労働をしてるから、稼いでいくのは難しいんだって。だから、家事をやれって。  優しいときには、優しいんだけど。大好きだよって言って、髪も撫でてくれるし。……夜は、やることやり終わると背中向けてすぐに寝ちゃうけど。  ……暴力、ってほどじゃないと思うんだけど、ときどき叩かれたりするし。  あたしは、そんなに頭がよくないんだって真は言う。俺の言うことに従ってればぜんぶうまくいくんだって真は言う。  シュウウウ……。 「あっ」  お鍋が噴きこぼれていて、あわてて火を止めた。  ……危ない。ふだんはさすがに、ここまで初歩的なミスはしないのに。  そんな感じで、いつもよりもさらに不器用だったけど、どうにか、野菜炒めとお味噌汁を仕上げた。野菜炒め、っていっても肉ばかりだ。そういう料理ってなんていうんだろ。真に訊いたら、たぶんまた馬鹿にされるしなあ。  ほかにも、食器洗ったり掃除機かけたりしているうちに、真が帰ってきた。あたしは、玄関で出迎える。 「おかえり」  真はあたしにコートを渡しながら、お鍋のなかを覗き込むようにして背伸びする。 「おっ。うまそうじゃーん」  あたしは、コートをハンガーにかけながら笑う。 「牛肉がたくさんあったから。もったいなかったし」  コートをかけて、お料理を出す準備をしようと台所の前にもういちど立ったら、唐突に、後ろから抱きしめられる。 「疲れたよー、美姫(みき)」  声はとても近くて。  ……あたしは、このひとのにおいが、嫌いじゃないけど。  ぎゅっ、とその力は強まる。 「……いつも真はがんばってるもんね」 「そう言ってくれんのなんて美姫だけだ……みきぃー、好きだよー」 「あたしも、真のこと好き」 「ほんと?」 「ほんと」  そのまま、すこしのあいだ、キスをした。  そのあと、部屋に戻った真は、声を上げた。 「うーわっ、なんだよこれ。高級菓子じゃん」  説明しないし、報告しないし、なにも悟らせない。  ……秘密というにも、大きすぎることだから。 「うん、そうなの。友だちの家にちょっと行って」 「へーえ。金持ちな友だちがいるんだな」 「食べていいよ。あたし、どうせあんこそんな好きじゃないし」  あたしは頭がよくないって真は言うし、じっさいそうだけど。  でも、真は、あたしが隠しごとできるってこと知らないんだろうな、とも思う。  あたしが料理をお皿に盛りつけているあいだ、部屋からはビリビリと包装紙を破る音がする。続いて、箱をパカリと開ける音――。 「えっ? はっ? う、うわっ、なんだ、なんだよこれっ……おい美姫、なんだよこれ! やべえんじゃないか、これ!」 「……え?」  慌てて真のそばにしゃがみ込んでみれば、そこには、ぱっかりと開いた老舗和菓子店の大きな詰め合わせがあった。  ただ、入っていたのはお菓子だけじゃなかった。  札束。それも、ぎっしりと。  あたしは思わず手で口を覆った。  そっか。  ――口止めってことだったんだ。 「な、なんだよこれ……い、いいのか? こ、これ、おまえのか、俺らのものなのかよ。ってかほんものか? 偽札じゃねえよな、こ、こういうのって透かしたほうがいいのか? やべえ金じゃねえだろな? 変なやつとつきあってねえよな?」 「違う……」  変なやつ……だったけど。 「違うよ……そういうんじゃないよ。ねえ、真……」  公子さんに舐められたあたしの素足。  あのひとの舌、ぜんぜん、滑らかじゃなかった。  そんなこと知って……どうなるっていうんだろう。あのひとは、あたしの……同僚、なのに。 「真、あのね……世のなかって、変なこと、たくさんあるの……」 「んなことよりさ、どうすんだこの金。自由に使っていいのか?」 「わかんない……」 「わかんない、じゃなくてさ! 頼むよ、だいじなときなんだからしっかりしろよ! これ何年遊んで暮らせんだよ? なあ! ……これさあ、数えてみていいか?」  あたしがなにか言う前に、真は札束に飛びつくようにして手を伸ばした。  あたしはそんな真を見て、思った。  ……気持ち悪いなあ。  公子さんも、そうだったけど。  そっか、このひとも、そうなんだなあ……。  あたしも、札束に手を伸ばす。ゆっくりと。 「おっ? なんだ? 俺たちの未来に貢献する気になったか?」  あたしは、微笑んだ。  そして――札束で、思いっきりその頬を叩いてやった。  わかる。もう、わかってる。  あたしはこのあと怒鳴られる。真の眉間は、すぐにぎゅっと歪むはず。  情緒不安定とか、ヒステリーとか……なんだって、どうでも、いいんだけど……。  自分のなかに涙の芽が生まれている。  おかしいっていうけれど。  真に、こんな男に、こんなところに、すがりつくしかないあたしだってきっとおかしいんだよね。  だからもしかして、あたしも、気持ち悪いのかもしれないなって――あたしは、はじめてそう思った。
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