第二章 変な想い出

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 小学二年生だった。  赤いランドセルは、二年生になっても重たく感じた。それに、赤色は嫌いだった。水色や金色のランドセルを背負っている同級生たちがうらやましかった。でも、色のことで駄々をこねるとひどく叱られることはわかっていたので、私は仕方なく赤いランドセルを背負っていた。  私の家はごくふつうの家庭だったが、ごくふつうの家庭がたいていそうであるように、世間に愛想を振りまきながら脅え、両親の謎の主義主張がはびこり、楽しい想い出と同時に理不尽な想い出も積みあがっていく、そんな家だった。  きんちゃく袋に入れたお箸やフォークが、ガチャガチャ、といつでもうるさく鳴ったことを、いまでもよく覚えている。あの夏は、なんだかその音がひときわ大きかったような気もする。  とにかく、暑い夏だった。  私は、その日も通学路をたどっていた。一学期も終わりに近いのだった。  髪のてっぺんが熱を帯びるほど暑い日、片道徒歩十五分の道のりは、小学二年生の私にとってそれなりにきつかった。人生で八回めの夏を迎えた私は、まだ、夏ということに慣れていなかった。もうすぐ夏休みだ、とはなんかいか思ったが、周りの子みたいに楽しみに思うことはできなかった。  だって、幼稚園のときと違って、一年生のときみたいに宿題たくさんなんだろうし、二年生だからもっと宿題たくさんかもしれないし、休日に約束してまで遊びたい子もとくにいないし、外は暑いから家にいたいし、でも家にいたらどうせ、萌香(もえか)の相手をしろって言われるんだ。萌香の相手はあまりしたくなかった。あの子はすぐに泣く。泣けばいいと思ってる。萌香が泣けば、お姉ちゃんなんでしょってだけで、事情なんか知らないくせに私ばっかりが怒られるんだし。  私はふたり姉妹で、萌香は私の三歳下の妹。私が小学二年生のときに、幼稚園の年中さんだった。  萌香もいまは地元の高校で女子高生だ。いまでこそ、見ためや言動はキツいけど、仲間に対しては思いやりがあるとかいって高校ではカリスマ的な人気者にさえなっているらしい。本人がよく母親に自慢しているのを聞いた。  じっさい休日はいつも遊びに出ていたし、スマホの通知音がいつもうるさいし、たまたま見つけてしまったSNSのフォロワー数もすごかったから、ある程度はほんとうのことなのだろう。アイコンで、私の妹は知らない男とプリクラでふざけていた。  萌香は、むかしと比べてすごく明るくなった。成長していって姉妹のあいだに距離感が生まれるにつれ、萌香はいつのまにか私をお姉ちゃんと呼ぶようになって、ときには愛想笑いまでも浮かべるようになった。  子どものころの萌香は、カリスマでも人気者でもなかった。神経質ですぐかんしゃくを起こして、わがままでやかましくて、矮小なずるさをナイフのように忍ばせている子どもだった。  喉をからからにして家に帰ると、暑かったでしょうと言いながら母親は麦茶を差し出してくれた。キッチンで、立ったまま一杯飲み干す。冷たい麦茶が染み渡る。おかわり、と言ってもう一杯。ごくん、ごくん、と自分の喉が動くのをおかしく感じる。そういえば静かだ。萌香はまだ帰ってきていないのだろう。萌香は年中のときには遅いほうのバスだったから、小学校が早く終わる水曜日は私が先に帰ってくる場合のほうが多かった。  ひと息ついて、さあお風呂の時間までなにをしようかと考えはじめたときに、母親は言った。 「ねえ、きょうね、萌ちゃんが幼稚園のお友だちのお家に遊びに行くんだって。(すず)ちゃん、ついてってくれない? どうせひまなんでしょう」 「えー、なに。ひまじゃないけど……」  じっさいは、ひまだった。友だちもいないし習いごともしてないし、これといって趣味もなかった私は、無限とも思えるほど毎日を持て余していた。人間の一生っていうのは十年くらいかと思っていたから、百年近くも生きるひとは自分とは関係ない世界の話だと本気で思っていた。私は十歳くらいで終わってもいいなって、べつに嫌なことがあったわけじゃなくても、ぼんやりとそう思っていた。だって、楽しいことなんてないんだし。  そんな無気力な子どもであった私を母親はどうにか外に出させようとしていたんだと、いまならわかる。たとえ三歳も年下の幼稚園児の妹の友だちであっても、遊んだほうがましだろうと、母親はたぶんそう考えていたのだ。いやむしろ、そのくらい歳が離れていたほうが、精神年齢的には釣り合いが取れると思っていたのかもしれない。私は、どちらかと言えば発達が遅く、ぼうっとした子どもだったから。ずるさを幼いころから知っていた萌香と違って。 「いいじゃない。水曜日だから宿題はないんでしょう?」 「そうだけど……」 「なら決まり。帰ってきたら、バニラのアイス食べていいから。なんかほら、坂の上にすっごい大きなお屋敷あるでしょう、知ってる? あそこのお坊ちゃんで、お金持ちらしいから、きっと出てくるおやつも豪華でおいしいわよー」  母親はおどけて言ったが、私はなんだかもやもやした。母親が私を食べものでばっかり釣ろうとしていたのが不満だったのだ、と気づいたのはだいぶあとになってからだ。 「萌香もそんな子と仲よくなるなんて、なかなかやるわよね」  私は中途半端に麦茶の残ったグラスを手にしながら、なんとなく、冷蔵庫の冷凍室を見上げた。  どうでもいい……お坊ちゃんだとかお金持ちだとか、萌香のことも、どうでもいいし。  どうせバニラアイスをくれるなら、いまくれたほうがいいし、私はほんとはバニラ味じゃなくってクッキーの入ったバニラ味が好きってだけなんだけど、そのときの私は、そんなことすら家族にだってうまく説明できなかった。  がちゃっ、ばたばたばたばたー、だーんっ、と、一気に廊下が騒がしくなる。 「たっだいまあーっ! お母さんお母さんっ、きょうだよきょう、萌ねっ、これからっ、未来くんのお家! 行くの!」 「はいはいわかってますよ、外に先生まだいるでしょ、先生に挨拶してくるからいま」  母親は苦笑しながら、部屋を後にする。おとなの挨拶を交わす声が、かすかに聞こえてくる。  萌香は幼稚園の制服のまま、ソファの上に座って、かばんの中身をぶちまけている。連絡帳とかクレヨンとかひらがなドリルとかは、小学校のものよりもちょっとだけカラフルに見える。 「……ねえ、萌」 「あぁ?」  萌香は男の子みたいな声を出して、手を止めて私を睨みつける。 「そんなに散らかしたら……怒られちゃうよ」 「っさい。鈴うざい」  それだけ言ってまた手を動かしはじめようとしたので、私は慌てて言った。 「鈴も、きょう、萌といっしょに……行くから……」 「はあぁ?」  今度は、高学年の男の子みたいな声だった。 「なんでおまえが来るの? 邪魔なんだけど!」 「だって、お母さんが……」  ちょうど、母親が戻ってきたところだった。 「ねええーっ、おかあさーんっ。なんでいつもこいつもいっしょなのーっ? やだよーっ、萌には萌の幼稚園でのつきあいがあるのにー」  萌香は母親の腰にまとわりつく。萌香はいつのまにか姉である私のことを、おまえとかこいつとか、そういうふうに呼ぶようになっていた。  母親はなにも気づいていないかのように笑う。 「お姉ちゃんがいれば萌ちゃんも安心でしょう。仲よくしなさいよ」 「安心じゃなーいっ、ぜーんぜんっ、安心じゃなくってお邪魔すぎるーっ!」  ぴょんぴょん跳ねて、ぽかぽかお母さんの太ももを叩く萌香から、すっと視線を逸らす。  なんでこんなに嫌われるんだろう、と。  私はなにもしてないのに、と。  ……でも、たしかに、私もそのとき萌香のことが大嫌いだった。
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