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坂のてっぺんにある萌香の友だちの家は、思っていた以上にすごかった。
私たちの家は坂の途中にあって、どの家もおなじくらいの大きさだけど、坂のてっぺんに来るだけでこんなに違うんだ、と思った。この坂はそもそもが高級住宅街であり、私の家だってこの坂に建っている時点でずいぶんと大層なものだったのだ、と知ったのはずいぶんあとだ。その頂上にある豪邸というのが、なにを意味するのかということも。
駐車場から見上げるだけでも、お城みたいに大きかった。でも、幼い私が口をぽかんと開けて見惚れたのは、汚れひとつない真っ白な壁だった。
「うーわーっ、でっかーい!」
私の後に車からひょいと降りてきた萌香は、ためらうこともなく感想を述べた。萌香はどうしてこんなに気遅れしないのだろう、と私はそのときも思った。
だって、私たちを家まで迎えに来て、ここまで送ってきてくれたひとは、しわしわのおばあさんなのだ。不機嫌そうで、鼻がちょっと曲がってて、悪い魔法使いみたいだ。
車に乗っているあいだ、私はずっとカチカチに固まっていたのに、萌香はべらべらべらべらとおばあさんに対してさえよく喋った。おばあさんは幼稚園の先生みたいに優しく話を聴いてくれなかったから、萌香はだんだんむすっとしてきたけれど。
エンジン音が止んで、おばあさんがのっそりと車から出てくる。
「はいはい。お待たせしました。それじゃ、こっちですよ」
声だけは愛想がいいが、その表情は背の低い私には見えなかった。なんだか奇妙に感じた。あとで思えば、子どもの目線に合わせて表情を見せる工夫をしないおとなに会ったのは、私はそのときがはじめてだったのだと思う。
背中を曲げて、こちらを振り向きもせずすたすたと歩いていく。おとななのに、給食当番みたいな服を着ていて、変なのと思った。私はそのときまだ、割烹着というものを知らなかった。
案内されたのは、絵本の世界みたいに豪華な部屋だった。赤いじゅうたんに金色のソファ。萌香はぎゃあぎゃあ叫びながらじゅうたんの上をごろごろしはじめた。はしゃいでいるつもりなんだろうけど、お行儀が悪い。注意しようかと思ったけど、なにも言わずに部屋から出て行こうとするおばあさんを見て、やめた。
私はソファの手すりに触る。ひやっとする。金色だ。
勇気を出して、声を振り絞った。
「……あのっ」
おばあさんはぐるりと振り向く。いかにも面倒だという顔をしていた。
「これって、ほんものの金なんですか」
「いえ。それはそういう塗装なだけ」
説明しようという気もないみたいで、それだけ捨てるようにして言い残すと、扉を閉めた。
萌香の動物みたいな叫び声にかき消されないよう、私は胸のなかだけで繰り返した、意味もなんもわからないけれど、トソウ、トソウ、トソウ……。
しばらくすると、扉が開いた。
ひとりで入ってきたのは、眼鏡をかけた男の子だった。萌香とお揃いの制服を着てるから、この子が萌香の友だちなんだ、ってわかった。そうじゃなかったら、気づかなかったかもしれない。
私よりも背はずっと小さいし、ほっぺたもぷにぷにしてるし、だから私より小っちゃい子だってことはわかる。でも、その表情があまりにも賢そうで落ち着いていて、もしかしてこの子は小っちゃいだけで私より年上なのかな、と思ってしまいそうなほどだった。中学年……ううん、高学年のお兄さん、それも児童会とかやってるようなおとなのお兄さんがするような表情をしてたから。
お兄さんみたいな顔をしてるのに、幼い顔だから……私は、とても奇妙な気持ちになった。
おとなになったいまだったら、あの感情になんと名をつけるだろう。ギャップ? 違和感? 気持ち悪さ? じつはいまも、よくわからない。
私と目が合うと、彼はにこりと笑った。
「萌香ちゃんの、お姉さんですね。はじめまして。僕、天王寺未来っていいます。萌ちゃんとは、いつも楽しく遊んでます」
私は面食らった。……なに、この子。これじゃあおとなじゃん。子どもなのに、おとなじゃん。
「あ、あの、えっと……伊鈴、井上伊鈴……」
「ちょっとぉーっ、未来くーん、なんでこいつと喋ってんのぉーっ!」
いつのまにやら立ち上がっていた萌香が、未来くんのところにどすどすと駆け寄ってくる。私はすっと身を引いた。そうでなければ、萌香に突き飛ばされると思ったから。
「萌ちゃん。来てくれてありがとう」
「あったりまえだよー。萌は未来くんのお友だちだもん!」
「うん、そうだよね。だから僕は、萌ちゃんに僕の犬を見せてあげたかったの」
「……未来くんって、犬飼ってるの?」
私がそう言うと、萌香はぎろりと私を睨んだ。けれども、未来くんは気にもしていないみたいで。
「うん、飼ってる。かわいい犬なんだ。コロっていうの」
笑った。あ、ちゃんと年中さんらしい顔するんだ、と思った。かわいいな、とも。
「萌はそんなのとーっくの、とーっくのむかしに知ってるしーっ。未来くんのペットのワンちゃんの名前がコロだってこともー、おーおむかしから知ってるしーっ! ねえねえ未来くーん、こいつなんてどうでもいいよー、早く萌にワンちゃん見せてよー」
「でも……お姉さんも、見たいですよね」
「えっ? ……う、うん。見たい」
自分がこのなかでいちばんお姉さんな対応をした、と思った。幼いころ私は、犬が苦手だった。近所のスーパーに行く道の途中にうるさい犬がいて、バウバウ吠えられると走って逃げて、ときには怖くて涙も出た。スーパーにはいつも母親と萌香といっしょに行っていた。そんなに怖がらなくてもいいのよ、と笑う母親がなにもわかってないことよりも、自分より三歳も小さな萌香が変なものでも見るかのようにまじまじと私を見てくることのほうがつらくて、私はますます犬が苦手になり、小学二年生のそのときにはすでに嫌いにさえもなっていた。
いまは……嫌いではない。犬もなかなか愛嬌があると思う。でも、苦手ではある。
未来くんのコロちゃんのせいだ。
私はいまでも、たとえば道で散歩している犬を見ると、コロちゃんのことを思い出してしまう。その犬がしぶしぶといった感じではなく、首輪をされてリードで引かれることも、飼い主と歩くことも、犬であることのなにもかもを楽しんでいる感じだと、なおさら。
私は、だからいまでも……犬を目にすると、ふっと目を逸らしてしまうのだ。コロちゃんとは違うとわかっていても、どうにも、見ていられなくて。
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