第二章 変な想い出

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 ――犬?  部屋に入って、コロちゃんを見たとき、私はまずそう思った。  広くて、応接室よりもっと豪華で、それでいて上品な部屋だった。ベージュを基調にしている。子どもらしい色の強いものはなにもない。あえて挙げるのであれば、コロちゃんの首輪は、強すぎるほどの赤だった。  未来くんは男の子だけど、お姫さまが寝るような、カーテンつきのベッドがあった。とても柔らかそうなベッド。  そして、ベッドと壁のあいだには――檻があった。ベッドの脚には鎖がくくりつけられていて、鎖は檻のあいだをくぐって、その先は大ぶりな首輪として――女の子の肌色の首に、つながっている。そんなに長くない鎖だった。これでは……檻のなかでさえ、満足に動けないだろう。 「僕のペットのコロだよ。かわいいでしょ。まだ小さいんだ、子犬なんだって」  未来くんは嬉しそうに紹介してくれるけど、だって……この子、犬じゃないよ、と思う。  コロちゃん――は、檻のなかで、右手で床に手をつき、左手を裸の胸に乗せている。身体を、隠そうとしているのだろうか。でもその腕は小さくて、裸の身体を隠しきれていない。ぎらぎらと暗く光る目でこちらを睨んでくる、威嚇してくるその子は――私には、どう見ても人間の女の子にしか見えなかった。たぶん、萌香とおなじくらいの歳の……。  でも、ふつうの女の子とぜったいに違うところは、犬みたいな格好をさせられているところだった。幼稚園や小学校のお遊戯会では、こういう格好をする子もいる。動物の衣装を着るということだ。けど魔法使いの役やおばあさんの役をやるひとはそういう格好をするし、木の被りものを被る子もいる。だから、お遊戯会で衣装を着るのともちょっと違うなって、思った。  赤くてごつごつした首輪、茶色くてぴんと立った犬の耳のカチューシャ、両手両足に嵌められた犬の肉球みたいな手袋。……やっぱり、おかしかった。  萌香はきょとんとしたようにコロちゃんを見つめていたが、それ以上の反応はない。  未来くんはしゃがみ込む。扉にはちゃんと鍵がついていて、未来くんはその首からネックレスみたいに提げた鍵で、扉を開けた。 「僕がお世話しなさいって言われたから、僕の部屋で飼ってるの。コロはいい子だからだいじょうぶだよ。犬って最初のしつけがだいじなんだっておばあちゃんも言ってたの。ねっ、コロ」  未来くんは檻のなかに手を入れて、コロちゃんの頭を撫でる。コロちゃんはうつむく。長すぎる髪がぼさぼさなせいで表情もよくわからないけど、頬っぺたのあたりが赤らんでいる気がした。たぶん、それは、学校のたてわり班で私が五年生のお兄さんに褒められたときにちょっとだけ頬が赤くなるのとは、違うんだろうなって……思った。  萌香はすかさず未来くんの隣にしゃがみ込む。 「この子がコロちゃん? えーっ、これでほんとに犬なの? 人間みたーい」 「ね、人間に似てるよね。でもコロは間違って生まれてきちゃったんだっておばあちゃんが言ってた。犬なのに、人間とおなじに生まれてきちゃったから、かわいそうな子なんだよって」 「ふーん……」  萌香はぜったいわかっていない。でも、私もよくわからなかった。  私もなんとなくしゃがみ込んだ。ちょっと距離は置いているけれど、萌香の隣といえば隣だ。コロちゃんのことを、なるべくよく見られそうな位置を選んだ。 「コーロちゃん」  萌香は珍しく小さな女の子らしい声で呼びかけながら、コロちゃんの頭に手を伸ばした。撫でようとしたのだろう。  だが、その手は、肉球の手袋をはめた手に勢いよく跳ねのけられた。じゃらり、と首輪につながっている鎖が鳴る。長すぎる前髪の下から覗く目は、殺気立っているといってもいいほどだ。呼吸が荒くて、裸の胸が上下する。怖がっているのだろうか、それとも……。 「コロっ! だめ!」  私まで、びくっとしてしまった。とてもきつい声。未来くんからこんな声が出るなんて、思ってもいなかった。萌香も未来くんの顔を見たが、なにも言えないようだった。  当のコロちゃんはというと、上目づかいで未来くんを見ている。顔をわずかに上げたせいか表情が見えるけど、目を見開いて、たぶんすごく、怯えていた。 「ごめんね、萌ちゃんと萌ちゃんのお姉さん、犬ってすぐに怒ってやらないと聞かないんだって、おばあちゃんもそう言ってたの、人間の子どもは言い聞かせればわかるんだけど、犬って、違うから。――コロ!」  コロちゃんは、かわいそうに唇のあたりをわななかせている。唇は色が薄い。怖くて震えるなんてほんとにあるのかなって思っていたけど、あるんだ、と私は知った。 「だめでしょ、萌ちゃんがせっかくコロのこと撫でようとしてくれたのに、だからコロはしつけがなってないって言われちゃうんだよ、悪いワンちゃんは捨てられちゃうんだよ!」 「あ、う……うぅ……」  コロちゃんの目には見る見るうちに涙が溜まっていく。  言葉はわかっているのだろうか。言葉を喋ることはできるのだろうか。  人間の表情にしか、見えないのだけど……。 「コロ、ごめんなさいはどうやるんだっけ?」  コロちゃんはふるふると首を横に振った。……言葉はわかってるんだ。 「ほら、コロ。ごめんなさいは?」 「……や、やだ」  コロちゃんが――喋った。まるで絶望みたいな顔をして――。 「わたし……わたしは犬、じゃないです、人間だもんっ……」  ぱしっ。  未来くんが、コロちゃんのおでこを思いっきり叩いた。  私たち姉妹はもう唖然として見ているしかない。  コロちゃんは声を上げて泣きはじめた。未来くんは立ち上がって、足でコロちゃんを蹴り飛ばしはじめる。なんども、なんども、容赦なく。檻がそのたびに揺れる。コロちゃんは自分の身体をかばい、火がついたように泣き続けるが、未来くんは、やめない。  コロちゃんを見下ろすその視線には優しさのかけらもなくどこまでも冷たい。楽しんでいるといったふうでもない。  しつけ、と――未来くんがそう言ったこと、そのことだけをしているように……見える。 「犬だよ。コロは犬だよ。みんなそう言ってるでしょ。間違って人間のかたちで生まれて来ちゃっただけでしょ。だってコロが人間だったらおかしいよ? 人間は服を着るし、ごはんも座って食べるし、首輪もつけないんだよ。僕は人間の子どもだから幼稚園にも行ってるよ?」 「わ、わたしもずっと、前は、保育園に行ってたもんっ……」  がっ。  ひときわ強く、未来くんの足はコロちゃんを蹴る。コロちゃんが縮こまったら、その頭に足を乗せた。ひぅっ、とコロちゃんは――鳴き声のように、声を漏らした。  未来くんは顔をぎゅっと歪める。 「うるさいよ。おまえは、犬なの。ワンワン吠えてろよ、人間の言葉喋るなよ」  コロちゃんの嗚咽は、どんどん激しくなっていく。うるさくて、ものすごく、この部屋を支配していると、私はそう感じていた。  いつのまにやら私の隣に逃げてきていた萌香が、私の服の袖を引っ張る。泣きべそをかいて、私を見上げている。萌香がそんなふうに妹らしく私を頼るのは、ほんとうに珍しいのだった。 「ねえ、鈴……やばいよ……」  私はうなずいて、萌香に小声で言った。 「トイレに行くふりして、脱出しよう」  萌香はこくりとうなずく。 「バレないようにするんだよ。萌。疑われたらお終いなんだよ」  まるでおとなのドラマみたいなかっこいい台詞を言ってるのに、わくわくと浮き立つようなことはなかった。私はただ、精いっぱいだった。  萌香は私の手をぎゅっと握ってきた。ふだんだったらぜったいそんなことしてやらないけど、私は、私よりも小さな妹の手をぎゅっと握り返す。  ぎゃんぎゃんと泣き喚くコロちゃんを静かに蹴り続ける未来くんに、いざ、と声をかける。 「……ねえ、未来くん」 「なんですか?」  未来くんは足を止めはしない。なのに声だけは明るくて朗らかで。恐怖に押しつぶされそうになるのをどうにか堪えて、つとめて平気なようにして、言う。 「トイレ、どこ?」 「二階にも一階にもあるんだけど、できれば一階のを使ってください。そっちのほうが二階より新しくてきれいだし」 「ありがとう」  よし。声は、震えなかった。 「萌。いくよ」  萌香の手を引いて、そろりそろりと、部屋を出て、廊下もそろりそろりと数歩、でもコロちゃんの声が耳をつんざかないほどの距離になって、私たちは、駆け出した。長すぎる廊下を、走った走った走った。足がもつれそうになって、いつのまにか互いに手を離してしまったけれど、それでも私たちはそのときいっしょに走っていた。  萌香は叫んでいた。私も、萌香ほどの声量でなかったとしても、たしかに、叫んでいた。  変なことを、変と言えるほど、私はまだ大きくはなかったのだ。だから、大きくなったいまでも……あの気持ちだけはあのときの生の状態のまま、腐りもしないけれど食べられてしまうこともなく、ただ、私の心の底に冷凍保存されていて、私はその凍ったかたまりをどうしたものか、じつはいまも、ぜんぜん、わかっていないのだ。
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