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ひと通り語り終えると、沈黙が降りる。すずめの声。カーテン越しに差す柔らかな陽射し。信じられないくらい平和な秋の午後。……いまの私の、現実。
私はもう大学生で……小学校二年生のあのころなんて、もう十年以上も前のことなのだ。
だから、想い出。想い出な、だけだ。それだけ……。
友人ふたりはなんとも言えない顔をしていた。同情、驚き、ドン引き……どれも近いけど、どれも違うような。ひとの表情や自分の感情に無理にでも名前をつけようと試みはじめたのは、思ってみれば、小学二年生あたりからだった気がする。
友人はしかめっ面をしながら言う。
「……それだけ?」
「それだけ」
もうひとりも。
「変だよねえ……変だけど」
「うん、変だ、っていうかふつうに虐待じゃんそれ。っていうか……親とか、どうしてたんだろ。事件だよね。拉致監禁事件だったのかも……」
「ね。よくバレなかったなあ。その子、つらかったろうね」
友人ふたりはふだんよりもゆっくりとしたテンポで感想を紡ぐ。なんだかどことなくひとりごとめいていて、ふだんのような丁々発止のやり取りにはならない。……そんなのはいま、私もそうなのだけれども。
気まずい、というわけではない。ふしぎと。けれどもこの三人でいっしょにいて、こんなにも静謐な空気になるのは、はじめてだった。
「……伊鈴もそれショックだったろうねえ。そうだよね。ショックだからいままでずっと引きずってて、いま私たちに話してくれたんだし」
「まあ……そうだね。小二のときあんなの見ちゃったらね、ちょっとは」
コロちゃんの、全力で泣いて全力で怯えていた顔。
「トラウマ……とまで、言わないけど。あの子のが、つらかったんだろうし。でも、犬をふつうの目で見ることはできなくなっちゃったなあ、近所の犬も、その前は怖かったんだけど、その後は、怖くはなくなったんだけど、なんか……直視できなくなった」
「でも……っていうか。でも、って言っちゃ、なんなんだけど」
友人は、クッションを抱き直す。
「私も……っていうか。うん。いっしょにするの違うとは思うんだけど。私、高校生のとき、露出狂に出会った」
えーっ、と言った私ともうひとりの声は、それぞれ控えめだったけれどもきれいに重なっていた。
「帰り道さ。田んぼで。私の地元、田舎だから。帰り道遅いとヤバくて。もうね、なんもないのね、街灯すらないから。チャリの明かりだけが頼りで。でも私いつも帰り遅くて。その日も暗くてさ、チャリ飛ばしてたの。早く帰りたかったけど、呼び止められたのね。まあ、呼び止められれば止まるじゃんよ。男の声だったけど、すみません、って困ったような声だったし、なんか弱々しくてさ」
私たちはうなずく。それでそれで、と話の続きを待つ。
「明かりもないし、まあとりあえずスマホのライトでさ、手もととか顔とか照らしたわけよ。細くてなよっちいひとだったなあ、声の通りって感じで。まだ若かったよ、大学生くらいだったのかな。なんですかどうしましたかって、ってこっちは優しい感じで訊くんだけどさ、すみません、すみません、ってずっと謝り続けてんの。いいひとっぽかったんだけど、しつこくてさ。ずっと謝るし。でもほら私ってなんか半端に優しいとこあるから、そのままってわけにもいかなくてさ。困ってるならいっしょに交番行きますか、一キロくらい戻ればあるんで、って、スマホで交番の番号調べようとしたんだよ。スマホ手に持つから、こう、ライトが下に当たるわけじゃん。したらさ」
私たちは、そしたらそしたら、とさらなる話の続きを期待する。
やたら真剣ぶって彼女は言うのだ。
「出てるわけ。こう、ズボンがあるべきとこから、ぽろん、って」
しん、と一瞬だけ静かになったあと、私たちは示し合わせたかのように笑いはじめた。手を叩いて、げらげらと、もしかしたら現役の女子高生よりももっと、ばかみたいに。
私だって、言う。
「えーっ、ないないーっ」
「それって見てほしかったってことかなあ? だとしたら勇気なさすぎ、どうせ見せるなら、もっと堂々としなよって感じだよね! だってそれ、ライト当たらなかったらなんにもなんなかったんでしょ?」
当の本人でさえも、笑いすぎて苦しそうだ。
「そうそうそうそう、ほんっとそうなの! しかもさそいつ、その瞬間、にぃーって笑ったんだよ、私が気づいた瞬間に笑ったの、それまではおどおどなよなよしてたのに、急ーっに笑ってさあ、またその顔がキッモいんだわ、べつにブサメンじゃなかったけど、ありゃまあ変態の顔だわな!」
「うっわ上級者ーっ」
「そうやって毎日、来るかもわからない女子高生を待ってたのかな……」
もうひとりの友人がそう言うと、なんだかすこしだけ場はしんみりとする。
「……まあ、そいつも、そうとしかできなかったのかもね。こっちとしちゃサイッコーにいい迷惑だったけど。でも変態って大変だよね。捕まるの覚悟でそうしてるわけでしょ。ある意味かわいそうだわ」
「犯罪起こすひとに同情はできないけどね……。でも、そうだね、そういうのって外じゃなくって家のなかとかでやればいいんだよね。そうしたら個人の趣味で、犯罪じゃないんだし」
笑いすぎた余韻ですこしだけくったりしながら、ふたりの会話を聴いていて、あ――と、思った。ふっ、と気づいたから、カーペットをまだら模様に照らす秋の光をなんとなく、見た。
直接、言葉にしているわけではない。諭すとかじゃないし、なんなら励ましですらないのだろう。
でも、私には、このふたりの言いたいことが聴こえてくる気がした。
――だいじょうぶ、よくあるよ、あるあるだってそういうこと。
……ああ、って。こころのなかだけで、ため息を吐いたんだけど。
べつに、そう気づいても、嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、ああ、やっぱり大学で出会うひとっていうのはおとななんだな、って感心もした。
だから、そういう、悪い感じじゃなくって。でも、っていうか、ただ、思ったこと。
ああ、わからないんだな、って。
目の前のこのひとたちは、私の友人。たぶん大学の四年間をいつもいっしょで親密に過ごせて、気の早い話だけども卒業してからも会ったりするような、一生ものの友だちだって、いまの時点でそう思える。
変態、の話が落ち着いてしまえば、なんでうちら仲よくなったんだろねって話なんかなんどもしてるのにまたはじめちゃって、フィーリングとか波長が合ったとかまじめぶっていろいろ言い合うけれど、最後は三人でぎゅうっとくっつくようにしてインカメラモードのスマホをかざして、どーでもいいじゃん出会えたことがすべてさー! なんて調子よくはしゃぎながら自撮り撮ったり、そういうことだ、そういうことなんだ、不満なんてあるはずもなく、目の前に広がっているのは意味も意義もある楽しい青春ってだけで。
だから、違う、違うのだ、そういうことではないのだけれど。
私のあの変な想い出は、共有できるようなものではなくて。
私の人生のなかでそこだけぽっかりと浮いて……しみといったら失礼だけど、モノトーンのつまんなかった子ども時代で、一点だけ茶色くこびりついている、そういうものなんだって、思った。
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