第一章 あの子たちのすべて

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 次の週の土曜日。あたしたちが待ち合わせたのは、先週同期での女子会をしたばかりの、おなじカフェだった。  天王寺さんは先に来ていた。本を読んでいる。ブックカバーをしているからなんの本かはわからないが、分厚くて大きな本だ。  きょうは茶色いチェックのワンピースに白い長袖のニットを合わせている。かわいいし、もともとがお人形さんみたいな天王寺さんにはすごく似合っているのだが、二十四歳にしては少々幼すぎる印象があるのも否定できない。そこまでならまだ仕事のときみたいなのだが、私服のときにはこうやって頭に大ぶりなリボン型のカチューシャをつけていたりするところが極めつけだ。  なんというか……かわいすぎる、というか。うちの会社は私服出社がオッケーで、天王寺さんはいつもこういう格好をしてくる。仕事ができるからだれもなにも言わないのかもしれないけど、仕事ができるからこそだれか言ってあげたほうがいいんじゃないかって、でもそんなこと思いながらあたしも言えた試しなど、ない。 「お待たせしました」  あたしが声をかけると、天王寺さんはふっと顔を上げ、本をぱたんと閉じると、いつものようににっこりと微笑んだ。 「こんにちは。須藤さん」 「……こんにちは」  そういえば、天王寺さんのチークはピンク色だ。仕事中はオレンジ色なのに。カチューシャといいチークといい、どうやらすこしは私服と仕事着とで分けているらしい。  天王寺さんが本をかばんにしまっているあいだ、あたしはメニューを見ていた。天王寺さんにも確認してから店員さんを呼んで、あたしはアイスのレモンティーを頼み、天王寺さんはホットのブレンドを頼んだ。砂糖もミルクもいらないんだそうだ。  店員さんが立ち去ってから、天王寺さんはおっとりと言う。 「ほんとは駄目なんですけどねえ」 「駄目、って?」 「わたしはコーヒー飲んじゃいけないのですよ」  来た。さっそくおかしいことを言っている。 「どういうことですか、それ」 「そういうことになってるんです」  まただ――そういうことになっている、って。 「……あの。天王寺さん。プライベートとかプライバシーだったらごめんなさい……あたしの勘違いだったら、あの、それでいいんですけど。天王寺さん、なんか騙されたり、してないですか? その……あたしはよく知らないんですけど、ほら、世のなか広くていろんな趣味のひとがいたりするし……」 「趣味、ですか?」  天王寺さんは首をかしげる。 「あ! あの! 違いますよねそんな特殊な感じじゃないですよね……でも、それだともしかしたら、事件とかに巻き込まれてないですか? だいじょうぶですか?」 「……どういうことでしょうか。齟齬が生じるといけないので、須藤さんが思っていること、はっきりと言ってくださるとわたしも助かるのですが」  あたしを煽るようなようすではなく、天王寺さんは本気で困惑しているようだった。  でも。……それを言わせるか。白昼堂々、洒落た喫茶店で。 「だからつまり……アブノーマルな趣味ってあるじゃないですか。あたしはまったく知らないんですけど、ひとを縛って喜ぶようなひともいるとかいうし、あ、う、ううんそんなの変ですよね、変なひとがいるから世間って怖いなって……はは……」  困らせるだろうことは話している最中にわかっていた、そんなの、とっくに。  それでもあたしはこの期に及んで、そうですよね世間って怖い怖いとかなんとか、天王寺さんが笑い飛ばしてくれることを期待していた。そうでなければ、そんなひとに対して失礼じゃないですかとかなんとか、いっそ怒ってくれたほうがまだわかりやすくていいと思った――天王寺さんにかぎって、そんなこと言って怒るさまはとても想像できないけれども。  けれども天王寺さんは、穴が空くほどの勢いでまじまじとあたしの顔を見るのみだった。赤ちゃんとか幼児とかと道ですれ違うと、こういうふうに見つめられるときがある。だがおとなの相手にこう見つめられることは、あまりない。  あたしの無駄な愛想笑いもしぼんでいった。 「……えっ。あー、えっと。あたしなにか……失礼なこと言いました? それともほんとに――事件?」  天王寺さんは悲しそうな顔をした。……このひとのこんな表情は、はじめて見た。 「うん。心配してくれてありがとうございます。けれど、なんて言えばいいんだろ……騙されてる……わけじゃないんです。事件……とも違います。でも。……なんて言ったらいいんだろ。うん。いまのわたしの状況……というか。わたしの生まれ育ってきたこと、わたしの生活、わたしのこと……すべてが、一般的に言えばたぶん変、なのかなって、自覚はしているつもりです」 「……すみません。それ、どういうことですか?」  天王寺さんは言葉を続けない。  奇妙な沈黙が降りてくる。  コーヒーと紅茶が運ばれてきた。その瞬間だけはあたしも天王寺さんも社会人としての礼儀正しさを取り戻して、どうも、ありがとうございます、と店員さんに笑顔を向ける。  店員さんがあたしたちのテーブルから去っていく。 「どういうことなんですか……」  あたしはいっそ呆然としていた。 「天王寺さん……それは、話せることなんですか。話せないことですか。――言ってみてください。あたし、会社でもそんなに仕事できるほうじゃないし、みんなみたいに頭よくないし、できることあんまないかもしれないけど、でもさすがに会社の同期が犯罪に巻き込まれてるかもって知っちゃったら、はいそうですかって黙ってはいらんないです」 「……犯罪、ではないんですよ。わたしは犯罪だと思ってないですし、……主人もそんなつもりじゃないんです。あのひとはいつでもわたしをすくい上げてくれるだけだから」 「結婚してるんですか?」 「結婚、ですか?」 「いま主人って」 「あ、そっか。あの、夫、って意味じゃないです。そっか、そうですよね、一般的には主人っていったらそうなるかあ……。わたしにとっては、主人っていうのはそのままの意味です。わたしの……なんて言うんだろ、主人は主人なのですよ」  天王寺さんははにかんでさえいる。言っている意味がまじでわからない。結婚していないのに主人って呼ぶって、なにそれ、ほんとにどういうことなの……。  あたしは天王寺さんをうかがうようにしてわずかに、睨み上げた。天王寺さんは反射みたいに首をかしげる。首をかしげるの、やっぱり癖なんだろうか。  あたしはそんなに頭がよくないし、このひとのことは嫌な女だと思っていた。いまもその気持ちがきれいさっぱり消えたというわけではない。というか、あたしにできることがあるかどうかもわかんない。  でも、ほっといては、いらんないと思った。  だから、自分のことは棚に上げてでも。あたしができることがあるなら、それは、やるべきなんだと思う。  天王寺さんは紅茶に口をつけ、ようとして、すぐにカップを口から離してソーサーに戻そうとしていたところだった。  あたしは強く言う。 「――天王寺さんおかしいよ」  ソーサーが、ガチャン、と音を立てた。……天王寺さんが落としかけたのだ。 「はひっ? あ、う、すみませんわたし失礼を、あ、だいじょぶです紅茶は零れてないです、あ、あの、たしかにわたしはおかしいってよく言われますし、ある程度は自覚しているつもりなのですけれども……主人にもよく言われるので……でもやっぱり須藤さんもそう、」 「そういうのいいから! ……だいじょうぶ? ほんとにだいじょぶなの? 騙されてない?」  あたしはどうにか、心配が伝わるようにって思う。 「そういうのって被害者のひとは自分じゃわからないっていうよ……なにか困ってることがあったら言って。あたしじゃ頼りないかもしれないけど、なにかのご縁でおなじ職場になったひとがなにか事件に巻き込まれてるんなら、ほっといてはおけないよ……!」  天王寺さんはなにも言わなかった。  ただ、ふっ、と息を吐くようにして笑うと、伏せた両手に視線を落とした。まつ毛が長いし、手が細くて白い。このひとはやっぱり、とても、きれいな女のひとなのだ。  視線を上げたその表情はあたしの知らないものだった。 「……心配してくれてありがとうございます」  この表情を、なんと言ったらいいんだろう。  笑っている。でも……切ない? 諦めたような、それでいて愛しく思っているような……。  まるで眩しすぎる朝焼けを見つめているかのような表情をしていた。 「でも、ほんとに、須藤さんの心配されているようなことはなにもないんです。悪いことはわたしたちのあいだになにもないし、不幸はわたしたちのなかになにもありません。あるいは、不運ならすこしはあったかもしれませんが、それすら幸福の材料なのですよ」 「……天王寺さんがなに言ってるかさっぱりわかんない」 「かも、しれないです。わたし、お話もあんまりうまくないから」  天王寺さんは、あたしの目をまっすぐ見た。まっすぐすぎて、あたしはその胸もとに視線をずらした。 「……けっしてだれにも言わないと約束してくれますか」  あたしはひゅっとその顔を見る。  天王寺さんは眉を下げていた。 「わたしを心配してくれた須藤さんに、わたしは、気持ちのお返しをしたいのです。……ほんらい人間には省みられるべきではない存在のわたしを、須藤さんは省みてくれました。だから、お礼をさせてほしいのです。……もちろん、主人が誤解されると困るということが、大きいのですけれど。それにきっと、いまからわたしが提案させていただくことは、須藤さんも納得してくれることに直結すると思うのです」  天王寺さんの背後には、一面ガラス張りの壁があって、その向こうではおしゃれなひとたちがおしゃれな街で、みんな幸せみたいな顔をして歩いている。春の午後はぼんやりとした青空のもとでうららかだ。  そんな景色と天王寺さんが違和感あるかっていったらそんなことは、ないのに。  このひとは、変なのだ。  天王寺さんは街の光を背負って、言った。 「うちに、遊びに来ませんか。須藤さん」
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