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豪邸にふさわしい応接室に招かれたあたしは、彼とすこしだけ会話を交わしたのち、腕を組んで彼を睨みつけていた。
天王寺未来と彼は名乗った。
あたしはいま、すごく失礼な態度を取っている。そんなことはあたしだってわかってる。ぱっと見この男は紳士的で人畜無害な感じだし。けど、そういうやつこそ危なかったりする。あたしはそういうことだったらよく知っているんだから。
こいつはクズ男だってあたしの女としての経験と直感が言っていた。あたしだって、伊達に女やってきてない。伊達に男に騙されてきてるわけじゃないんだ。
だってそれにまず公子さんがこの場にいないのって、どういうこと?
「僕の勘違いだったらすまないのですけど、僕、あなたと出会ってからいまの時間で、あなたになにか失礼なことをしてしまったでしょうか。……怒らせてはいませんかね?」
へりくだったようで、ぜんっぜん、自信満々って感じだ。
あたしはさらに強く、キッと彼を睨む。天王寺未来はそっと笑う。穏やかで文句のつけどころのない紳士の笑いって感じ、それ以上でも以下でもなく、きっちり百点の笑顔って感じだ。でも、だからこの笑顔は、とてつもなく胡散くさくて傲慢なものに見える。
芸能人みたいに格好いいわけではない。かといって、格好悪くもない。センスがすごくよく見えるわけではない。でも、着ている服はさりげなくブランドモノだ。黒縁眼鏡がそれなりに似合っていることだけが印象に残る。つまりそれ以外は印象に残らない。同級生や同僚だとしたら顔と名前を一致させるのに苦労するタイプだし、道や電車で視界に入ったとしても次の瞬間には顔も存在も忘れている。……そういうタイプ。
つまりは印象に残らないことが印象って程度の男だ。
それなのに、なんだろう、この嫌な感じ。
なんかとても、クズはクズだとしても、――危険な男な気がする。
「いやあ。僕、女性の扱いが不慣れなものでして……中高と男子校でしたし、大学も数学科とかいう変わり者なところに行ってしまいましてね。じつはいまも院生なんですよ、はは、もういい歳なのにお恥ずかしいかぎりです。……須藤さんはご立派に働いているそうで。社会人の先輩だなあ。参ったなあ、僕は社会にも疎くて、いろいろ教えてほしいくらいですよ」
「……なんで、大学院生なことが恥ずかしいんですか。自分の好きな勉強をしているんなら、恥ずかしくないと思いますけど」
天王寺未来は、なるほど、と言いながら大仰にうなずく。
「ごもっともです。いえ、あなたみたいに寛容なひとばかりではないのでね。そう言っていただけると助かりますよ」
「――それで。女性の扱いが不慣れだったら、公子さんとはどういう関係なんですか?」
あたしはまっすぐ訊いた。
「っていうか。あたし、公子さんに会いに来たんですよ。なんかあなたがしれっとここにいますけど、早いとこ公子さんに会わせてくれませんか?」
「公子さん?」
彼はきょとんとして繰り返した。まるでほんとうに心当たりがないかのように。
……いいかげん苛々してきた。
「だから、公子さんですよ。この家にいる公子さん。天王寺公子さんですよ。あたしの同僚の。あなたは公子さんのなんなんですか? お兄さんですか? もしかして彼氏とか? 夫とか? 公子さんを不当に扱ってるんじゃないですか? ――暴力とかだったら許されることじゃないですよ。それだったらあたしだって考えがあるんです、そのために来たんです」
「――ああ」
彼は合点がいったようにうなずくと、にいっ、と口もとだけで笑った。
……怖い。なに、この顔。不気味だ。やだ。……得体が知れない。
やっぱりただの清潔なだけのお坊ちゃんではなさそう。
「……コロのことか」
「は……?」
コロ、という音の響きが耳の表面を滑っていく。……コロ? ペットかなにかの名前?
あたしの訝しむ視線に気がついたのか、天王寺未来はぱっと電気をつけるようにして、人当たりのよいその笑顔を取り戻した。
「ああ、すみませんね。いえ、しかし、事情はわかりました。……だからコロもあなたをここに連れてきたかったのかもしれませんねえ」
「……あの。だから。どういうことなんですか。あたしにもわかるように説明してください」
「承知しました、そういうことなら喜んで。僕としてもね、困ってるんですよ。あの子は機械的な暗記はできてもけっきょくね、しつけがなってないから、」
――しつけがなってない? 公子さんのこと? あんなにも上品で仕事ができるひとのことを?
「そうやってすぐ、ひとに言いたがるんですよ。でも結果的に、そうやってあなたのような有能な女性にもいらない誤解と心配とご迷惑をおかけしてしまう。――やっぱり言葉なんて与えるもんじゃなかったんですかね?」
そんなふうに。
そんなふうに同意を求めるかのように笑顔を向けられても。
「ペットのせいでひとさまに迷惑かけちゃいけませんよね、申しわけありませんでした、須藤さん。……まあとりあえずは、こちらへ」
天王寺未来はそう言いながら立ち上がった。
ぜったいぜったいおかしいって。
あたしはそう思いながらも、ここまで来たらとことんたしかめてやるんだと、ぬるくなった紅茶を飲み干すとがちゃりと置いた。
天王寺未来に案内され、ふかふかの赤いじゅうたんが敷かれた廊下を音もなく歩いていく。
そういえば先週のあのカフェでは、公子さんもカップをこんなふうにがちゃりと置いていた。
そうだ。……そうだよ。あたしが会いに来たのは、あたしの同僚の公子さん。
とりあえずは公子さんに会わないことにはなにも、わからない。あたしには、まだなにも。
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